東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.189

全人的医療?

日下隼人    私にはなかなかなじめない言葉なのですが、「全人的医療」という言葉が聞かれるようになってからずいぶん時間が経ちました。私がこの言葉になじめないのは、そこに医療者には患者という人間のすべてを見通す力があり、すべてに介入する権利があるという雰囲気を感じるからです。
   言い換えると、自分が患者なら、この言葉はなにか不愉快です。全人的=医学的・心理的・社会的(一言「くらし」と言うほうが良いと私は思います)に考えると言われる時、私は分析される対象の位置に留まっているようです。分析する目の強化は、患者を「見下ろす目」の強化でもあります。でも、患者としては、はじめて出会った赤の他人たちに私の「全」人格を観察され、あれやこれやと話し合われたりいじられたりされたくない。自分のすべてが分かられてたまるものか。みんなが見つめるのならば、尚更ほんとうに大切なことは簡単には見せたくない。白衣は他人の人生にズカズカと入り込むことのできるパスポートではありません。あなたが私の人生に入り込んでも良いかどうかの「審査」をするのは私だということが分かっているでしょうか。その審査も受けずに「病気を診ずして病人を診る」と思い込まれても。
  もともと、他人の人生を全方位から把握する能力なんて誰も持ち合わせていませんし、チームでも出来ないことです。一人の人生という分厚い一冊の本を読みこむことは誰にもできません。読めないのは、分厚すぎるからだけではありません。その本は自分ひとりで書かれているわけではありませんし、今も日々書き続けていますし、過去の記載について日々加筆されていますし、自分にも読むことができないことが書き込まれている無数の白紙のページもあります。そこに書かれている壮大な物語を話すことは、自分にもできません。それぞれの医療者は自らの限られた人生観という針の穴から、患者さんの人生を覗き見るくらいのことしかできません。目の前の人の人生の広がりは、医療者の視野をはるかに超えています。全人的に患者さんを見ることに努めるよりは、全人格的に人を見ることなどできないのに、(そんなつもりが無いまま)全人格に干渉してしまっているという「おそろしさ」を痛いほど感じることが「寄り添う」ということなのではないでしょうか。

   「全人的に見る」と言うことで、自分の引き受けるべき領域がかえっておろそかになってしまう可能性があります。「病気のことしか診ない」のではなく、右を見たり左を見たりしているうちに「病気のこともきちんと診ていない」ことになってしまうかもしれません。医学的に診るべきことをしっかり見て、どうしても伝えなければならないことを患者さんとていねいに話し合うこと、それは間違いなく医者の仕事です。
   「知識を獲得する前提条件として、『この先生は信頼できる』と感じていたことが重要なのです。そう感じたとき、その知識は初めて真理になる。それて信じられるという気分になる。それがないと、いくら知識を聴いたとしても、信じるというところまで至らないのです」(哲学者の大澤真幸の言葉) この信頼は、患者さんの想いをきちんと聞き、病気のことを相手が受け入れられる言葉でしっかり伝え、自分のできる範囲でそばにいることを伝えることからしか生まれないでしょう。もちろん、技術=「手あて」の「手」が粗雑では、信頼は生まれません。
   患者さんには、病むと同時に「患者という存在=医学の枠」に納まりきらない自分の人生についての思いが湧いてきます。その思いが言葉にならない時、言葉にできても口に出せない時、患者さんは悲鳴をあげるしかなくなります。悲鳴は心の中でしかあげられず、それを自らの内に抱え込んでいる限り、採るべき道は逃げ出すか、鬱々としながら医療の枠組みに従うしかありません。
   患者さんが悲鳴を「自分の言葉」に変換して、口にすることができるためには「すきま」が必要です。その言葉を受け止めてもらえるに違いないという信頼が必要です。医療者が、心からの敬意を持って、心から相手の話を聴き、心からの言葉で話すことから「すきま」が生まれ、それは信頼の源になりえます。「この先生は信頼できる」と感じられてはじめて、患者さんはその思いを自分の言葉で少しずつ語り始めます。患者さんは、その人生を自ら回復しようとします。それは、医師の説明する医学の枠に入りきらない医療を自らの力で切り開く第一歩です。それだけの力を人間は持っています。そこから展開するのが全人的医療であり、全人的医療の骨格を決めるのは患者を措いてありえません。私たちに必要なのは「すきま」からあふれ出る「自分の言葉」を「待つ力」、その言葉を「聞き取る力」です。思いはあふれているに違いないのですから、言葉が聞き取れない時には、こちら側のどこかに「問題」があるのです。
   しかも、病いは、人に論理的・理性的に話すことを妨げます。思いは言葉に入りきらず、しばしば言葉と乖離します。そのことを覚悟したうえで、言葉を受け止めた医療者がそれぞれの知恵を少しずつ出し合って(患者さんの思いにこたえられるだけの知恵は、どの職種の人もほんの少ししか持ち合わせていません)、患者さんと一緒に考えることでその言葉=思いに応えていくことは、ケアです。ケアは、いつだって医学の枠組みには入りきらないのです。
   医者は、患者さんの「自分の言葉」を受け止め応えることに、きっと一番遠いところにいます。医者になるまでも医者になってからも、そして未来に向かっても「恵まれた人生」の中にある人(ステレオタイプの認識ですが、ステレオタイプにはそれなりの根拠があります)には辿りつきにくい深いところで、人は病みます。でも、断絶はしていません。患者さんは孤独であり、職業的に病気と関わる人の「冷たさ」を感じます(この冷たさは、医療にとってポジティブな側面があることはNo.185でも書きました)。だから、医療者がたった「一言」「ひと手間」のためにほんの少しだけ時間を割くだけでも患者さんは前を向けますし、自分の言葉を語るための階段を少しずつ上がることができます。
   患者さんは、医療者の温かい言葉や態度を待ち続けていますから、少しでもそのことを感じられればホッとします。それに、人は自分の選択や巡り会わせを「良かったこと」となるべく考えるようにしたいのですから、しばしば「過剰に」好意的に受け取ってくれています。「言葉の表情」や「手の丁寧さ」を受け止めるreceptorがたくさんあります。少しでも温かさを感じられればうれしくなるようになっていますから、「温かさ」が多すぎると受け止めきれずに、かえって傷つくこともあります。同時に、「温かさ」を待っているreceptorは、「ささやかな」冷たさにも敏感に反応してしまいます。
   それで、「あんな人付き合いの悪い先生なのに」信奉する人が必ず出てきますし、「あんな良い先生なのに」悪しざまに言う人も出てくるのです。「ふだん冷たそうな先生が、あんな優しい言葉を言ってくれてうれしかった」、「いつも優しい先生なのに、あんなことを言うなんて、もう信じない」というように。「たまにあんな優しそうなことを言っても、あの先生結局冷たいんだ」、「今回は冷たい言葉をいわれたけれど、あの先生のことだからきっと本当は優しいんだ」と思うことももちろんあります。

   患者さんの言葉に応える一言・ひと手間は、「医師として」ではなくふつうに暮らしている生活の感覚から生まれます。この感覚は、自分の「くらし」がどんなに薄い人であっても身についている「隣人」への感覚です。「患者のくらしや心なんか知らないよ」と思い続けていても、それにもかかわらず気にかかってしまい、どうしても無視できなくなることがあります。気にかかる言葉、そばを離れがたい気持ち、どうしてもしてあげたくなってしまうこと。そういったことを感じてしまった自分からは逃げ出せません。心からの言葉は、そのようなところで生まれます(そのようなところでしか生まれません)。プレゼントするのは、一言、ひと手間だけで良いのです。一言だけ、ひと手間「だけ」と考える時に、どの言葉、どの手間を選ぶかが、鋭く問われます。その瞬間、私たちは患者さんにとても近づいています、「寄り添って」と言っても良いのかもしれませんが。(2014.12)

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