東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.190

道を譲る

日下隼人    内田樹さんは、「お先にどうぞ」というのがE.レヴィナスの姿勢だと言います。それで、というわけでもありませんが、私は道や駅を歩く時でも、エレベータに乗り降りする時でも、病院の中を歩く時でも、犬の散歩の時でも、自動車を運転する時でも、道を譲るようにしています。ところが、このところ、道を譲っても目礼程度の返礼もしてくれない人が多いのです。「こんなことで、これからのこの国は大丈夫かな」と思わないではないのですが、今回は別のことを。
   「返礼もしないのか」と私が感じてしまうのは、自分が優位な立場にいると思っているからなのだろうということが気にかかります。「してあげている」と思うから、どこかで返礼を期待してしまう。(人の「利他性」はさまざまな起源を有しており、このような見方は一面的でしかないのですが。小田亮「利他学」新潮選書) 自分に余裕がなければ、他人に「譲る」ことはできません。「余裕がある」「譲っている」ことに孕まれた優位性を、相手の人は鋭く感じとります。「譲る」人の余裕を苦々しく感じる人がいてもおかしくはありません。そんな人は返礼しないでしょう。それに、返礼も余裕のある時にしかできないのです。

  コミュニケーションでは「相手の話を遮らずに聴く」ことが最も大切なことですが、「話を聴く」ということもこちらに「ゆとり」がなければできないことですから、優位性がつきまといます。「聞いてあげているよ」という雰囲気にも、聞いてもらっている人の心にさざ波が立つかもしれません。河合隼雄さんが「カウンセラーのゆとり」と言っているように、それは避けられないことなのですが、そんなことにも少しだけ気を配れたらと思っています。
   「うん、うん」「ほおー」「なるほど」と首肯し続けられることにも、聞き手の優位性は前面にたってしまいます。相槌にも、相手の話に肯定的なもの、否定的なもの、敵意を感じさせるもの、嘲笑的なものなど、いろいろあります。相槌を打たれた人は、相槌のニュアンスを感じ取り、相手が望む方向に話を合わせていきますが、「上の人」はそのことに気づきません。コミュニケーション技法で「相槌を打つ」ことを指導するだけでは足らないのだと、私は思うようになりました。
   鷲田清一さんは、熟練のバーのママの「わざ」について述べています(また衣を借りて・・・)。
   客の愚痴に『しょうもな、聞いとられんわ』『もうちょっと楽しい話できひんの』とばかりに、わざとつっけんどんに言う、つれなくする、憎まれ口を叩く、そんな返し方をする。からかうこと、はぐらかすこと、そらすこと。とりあわないこと、聞き流すこと、聞こえてないふりをすること、聞かなかったことにすること。そんな搦め手のわざをみごとに使う。・・・相手が言葉をとりあえず受け取ってほしいのだとわかりながら、あえて突き放すといった手に出る。・・・・はぐらかしながらも、そらしながらも、けっして相手を置いてきぼりにはしない。その場から去ることをしない、相手に背を向けることはしないのだ。なだかんだといって、愚痴やいじけに最期までつきあってやる。そう、相手に自分の時間をやるのである(だから金もしっかりとる)」(「おとなの背中」角川学芸出版) 医療面接の場面ですることではないと思いますが、私たちの持つ「優位性」をこのような形で「使い果たす」つきあいはあり得ると思います、ケアでも研修医指導でも。

   人はつねに「恩知らず」であり、「恩は仇で返される」ものだと思います。相手の人に「恩を与えた」と思う人は、どこかで「恩返し」を期待しています(有形のものを期待することもあるでしょうが、「どこかで感謝してね」というような無形のことのほうが多いでしょう)。意識していなくとも、「恩を与えた」という雰囲気が滲み出がちです。相手の人も「恩を受けた」とは思っていますから、滲み出る「恩を与えた」という雰囲気を感じ取ります。そのような状態が続くと「恩を受けた」人は息苦しくなります。「最初はともかく、あとは自分の力で生きてきたのに」と不愉快になります。息苦しさが続くと、そこから逃げ出すか、その関係をなかったことにするか、力づくで断ち切るかしかなくなります。「恩知らずとか」「仇で返された」と思われるような行動をとらなければ、断ち切れないことも少なくないでしょう。だから「恩を与えた」と思って付き合い続けていると、その人はいつか必ず「あだで返された」、「裏切られた」と感じるような事態に出会うことになります。そのことで相手を非難したり攻撃したりすることになれば、それは「悲喜劇」です。
   親子関係でも師弟関係でも、しばしばそのような言葉を耳にします。医療者が「患者に裏切られた」「あんなにしてあげたのに」「こんなに思っているのに」と思う時にも、同じようなことが起きているように感じます。でも、見方を変えれば、それは患者さんが「自立」に向かって歩き出したということです。「広く薄くたくさんのものにケアしてもらうという関係が、『自立』ということなのではないか」と熊谷晋一郎は言います(「痛みの哲学」青土社)。親子でも師弟でも、そして患者-医療者でも、「適度に離れる」ことは「寄り添う」こと以上に難しいのかもしれません。
   「道を譲ったのになあ」と思う気持ちから、「裏切られた」と思うことまでは案外近そうです。No.188で書いた「寄り添っている」と思い込むことの危険にはこんなことも入ると思いますが、それはもともと「寄り添う」という言葉に相応しくない。「寄り添う」ということは、なるべく早い「別れ」を目指しながら、相手のことを大切にずっとそばに居続ける時にだけ、その名に値するような気がします(この「そば」は同じ場所に居るということではありません、居ることもあるでしょうが)。「離れること」を「卒啄の機」のようなタイミングとして考えると、その機を合わせることは難しそうですが、試行錯誤的に離れたり近づいたりを繰り返しながら次第に「ほど良い」距離が生まれてくると考えれば、それは人間の普通の関係の延長にあるということもできそうです。発達心理学者のM.S.マーラーは、乳児が母親との一体感から分離していく過程を「分離-個体化」とまとめましたが、その過程はおとなどうしのほど良い関係の形成にも通じるものがあるような気がしています(こうした敷衍は、専門家には「違うよ」と言われるでしょうが)。

   こんなわけで、自分が返礼できなかった時には私はうじうじと「返礼できなかった言いわけ」を自分に言い聞かせることになっています、それがまれなことでもなくて。(2014.12)

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