5 「今日はどうしました?」ではなく
「いよいよお話を伺います。「今日はどうしました」ではなく、「今日はどんなことがお困りですか」「今日、困っていることを教えていただけますか」といった言葉で始めます。すでに問診用紙や前回受診記録があるのが普通ですから、多くの場合「・・・・とのことですが、もう少し詳しくお話しいただけますか」「その後の経過を教えていただけますか」になります。「どうしました」という上からの訊問の雰囲気の言葉を使うのではなく、「下から」教えを乞うように尋ねる方が良いということを、神田橋條治さんの本で学びました。(「神田橋條治 医学部講義」創元社)
ここからOSCEでも学ぶ「傾聴」が始まりますが、傾聴とはひたすら聴いていればよいというわけではありません。特に気を付けたいのは、はじめだけ「傾聴」すれば良いということではないということです。OSCEを経験したためか、はじめだけopen-ended questionで聴いて、後はひたすらclosed questionで訊く人が少なくありませんが、患者さんにはclosed questionを受けた記憶しか残らないでしょう。
傾聴とは「相手に関心を持ち、言葉から相手の気持ちや考えを知ろうとしながら聞くこと」だと宮岡等さんは言っています(「こころを診る技術 精神科面接と初診時対応の基本」医学書院)。患者さんのお話を聴くということは、患者さん・家族の人生がありありとみえるように聴くということです。その人の暮らし、家族、個人史、思い、人生観・・・・・・。診察室の壁や扉が消えて、目の前の人の後に広がる世界が見えてくるように話を聴く。「どうしてなんだろう」「どうなっているんだろう」と思いを巡らしながら、聴き、尋ねることです。でも、「どうしてですか!?」と訊問調で尋ねないでください。「どうしてなのかもう少し教えていただけますか」です。
私は、むしろclosed questionをはじめに少し重ねて、そのあとでポイントとなると感じたことについて「もう少し詳しくお話いただけませんか」とopen-ended questionで尋ねることの方が多いようです。両脇に大きな草の茂った山道を登って行って、高台にたどりついてぱっと見晴らしが良くなったような感じと言えば良いでしょうか。そのほうが、openな感じが強くなると思います。神田橋さんは、丁寧に聴いていくとポイントが見えてくるので、そのポイントについて質問をすると「ああ、ちゃんと聴いてもらえていたんだ」と患者さんが感じる、と言っています。
話を聞くときの相槌や促しは大切ですが、それにも「上から目線」を感じさせてしまうものと、「対等目線」「下から目線」を感じさせるものがあるようです。「うん、うん」と言うような上からの相槌をする人が少なくないのですが、これだけで不快になるものです。言葉そのものよりも、言葉を発する時の雰囲気で、相槌によって話が進む場合もあれば、話を削変えてしまう場合もあるのです。相槌は多すぎたり早すぎたりすると、相手を急かすことにしかなりません。
OSCEでの「それは大変でしたね」という「共感的な言葉」は、不自然だということで、あまり評判が良くありません。私も、大切なのは共感的な言葉ではなくて、共感的な態度だと思いますし、それは相手の話を丁寧に聴く姿勢、丁寧に説明する姿勢、相手の暮らしに目の高さを合わせていくことだと思いますので、よほど心から「同感」しない限り、言う必要はないと思います。でも、宮岡等さんは「言葉できちんと伝える方が良い」と言います(ただし、快の気分の共感は有用でないこともあるし、自分の経験は共感の妨げになることもあるとも言っています)。
また、宮岡さんは「患者さんとしては、どのような病気がご心配ですか」といういわゆる「解釈モデル」は、相手の考えを確かめるためというより、「コミュニケーションを円滑にするために尋ねている」と考えるべきだと言っています。このような確認からは、質問の言葉を超えて、患者さんに「自分がいろいろ配慮されている」というメッセージが伝わります。「気遣われて」不快になる人はいません。もちろん、患者さんが気にかかっている病名を言ってもらうことから説明が深まったり、展開したり、時にはこちらから言いにくいことを言ってもらえることもありますから、この質問は文字通りの意味でも重要です。「ほかになにかご心配なことがありますでしょうか」のように尋ねることも大切ですね。
丁寧に話を聴いていると、それだけで聴いてもらう方は落ち着いてきます。その場の雰囲気が和らいできます。保護者と医師との間の雰囲気が和らいできていることを感じ取れば、子どもの恐怖も軽くなります。「社会的参照」をする年頃の子どもなら保護者と医者の顔を交互に見ながら、雰囲気を感じ取るでしょう(それ以外の年齢の子どもでも保護者の雰囲気を探ろうとするのは同じです)。親の敵でなさそうな人は、自分にとっても敵ではなさうです。そうすると、診察で子どもが泣かないことが多いのです(声かけも大切な要素なのですが、そのことは後で)。診察の時に泣かないでいてくれると、泣いている時よりずっと多くの情報が得られます。ここでも、医療面接や接遇と医師の身体診察は表裏一体になっています。面接に多少時間がかかっても、診察がスムースに進み、多くの情報が得られるとしたら、トータルにみれば時間も「得」をします。
話を丁寧に聴くにはエネルギーが必要です。でも、そのエネルギーは保護者や子供にプレゼントされます。そのエネルギーの力によって、少し落ち着いてきますし、気分がすっとします。自分の考えが整理されます。少しずつ信頼が生まれてきます。聴くことは、信頼の源です。こんなに聞いてくれるのなら、もう少し話してみようと思います。丁寧に話を聴いてくれる人だからと感じてはじめて、だいじなことを話してくれる人が居ます。精神的なことや家庭の事情など、あるいは本人がぜんぜん重要だと思っていなかったことなどです。そして、話をていねいに聴いてくれる人の言うこと=アドバイス(診断名や治療内容など)なら聞いてみてもいいかなと思います。自分の話を聴きもせずに一方的に投げかけられたアドバイスに耳を貸す人はいません。丁寧に話を聴く時間は、ちゃんと生きてきます。
保護者の話が、「大げさだ」とか「心配し過ぎだ」「神経質だ」「うるさい」とか感じることがあっても、そのような言葉を控えて、ともかくよく聴いて、少なくとも一度は検討すべきです。親は心配し過ぎるのがあたりまえですし、そうしたら「うるさく」なるのがあたりまえです。丁寧に聴いていくと保護者の問題や親子問題が見えてくることがありますし、逆に淡々と話す保護者の抱えている問題が見えてくることもあります。「大げさ」「心配しすぎ」と言ってしまった子供に後になって大きな異常が見つかれば医師が「責められる」こともあります。それは、「診断が遅れた」という医学的な判断よりも、「軽くあしらわれた」という思いから「責めて」いることのほうが多いのだと思います。このような否定的な言葉から、何か良いことが生まれることはありえないのです。
受診の仕方や育児に問題があると感じられることは少なくありませんし、適切な助言を行うことは医師の務めです。でも、絶対に子どもの前で保護者を叱責してはいけません。そのことが、これからの親子関係にひびを生まないという保障はありません。このようなことにあまり配慮しない小児科医がいることは残念なことです。「北風と太陽」の喩えのように、叱責という人のプライドを傷つける言葉は聞いてもらえず、指導にも助言にもなりません。叱ることで指導できると思うのは、体罰で人の心を動かすことができると勘違いしている教師のようなものです。叱る=相手の人格否定をして良いという権利を医師は持っていません。児童虐待をしている親などに対してなら、なおさらですね。
「どうして、もっと早く来なかった?」などと過去を責めても取り返しがつきませんから、それは保護者に罪悪感を抱かせたり、医療者への反発を抱かせる以外の効果はありません(そう思うことは確かにあります。それでも、です)。これからどうするか、同じような轍を踏まないようにするにはどうすれば良いかと助言するべきです。「こんな育児をしていたから子どもがだめになった」などというのは、保護者虐待であり、事態の解決を困難にするだけです。(2015.01)