東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.196

「だめですね」から始めても

日下隼人   私が自動車の運転免許を取ったのは38歳の時でした。勉強と試験が大嫌いな私は、大学にやっと入ったのに「受けなくても良い」試験を受ける人の気がしれず、とにかく試験からは逃げられるだけ逃げようとしていました。勉強からも逃げていたので、高校では落ちこぼれ、大学では学生運動をして講義はサボってばかりの学生でしたし、卒業しても人間の性格ですもの、変わりがありません。これまでの人生で、少し人並みに頑張ったのは、予備校の1年、3ヶ月の解剖実習、6年生のBST(今のBSL)の1年(5年間のサボりを取り戻すしかなかったので)だけです。そんな私が「優秀な」研修医になれるはずもありませんでした。小児科の先輩たちは誰も私には期待していませんでしたし、その予測は当たっています。私は、自分のようなダメ研修医が、それでもなんとか医者をやっていけるように「支援」する卒後研修について語ってきていますので、優秀な研修医の人たちには私の話は通じないだろうと思っています。
   教習所に通いだすにあたって思い出したのは、島崎敏樹さんの「自動車学校の指導員から、覚えの悪いのは医者と教師と年配者と言われたが、自分はその3つを兼ね備えている」という言葉でした(「心の風物誌」岩波新書)。人の言うことを素直に聴けず、何かと理屈(屁理屈?)を言う人種、ということでしょうか。私も似たようなものなので、教習を受ける時の態度にはだいぶ気をつかってしまいました(指名教習で、とても優しい指導員の方だったので、実は楽しい教習でしたが)。
   私が医科歯科大学に入った時、島崎敏樹さんは精神科の教授でした。医学部に入る前から子どもと関わる仕事がしたいと思っていましたし、すでに何冊かの本を読んでいた島崎先生の居られる大学に入学できたのだから、精神科医になり児童精神科に進もうと私は意気揚々としていました。ところが、島崎先生は、私が1年生の時に55歳で退官されてしまいました(定年は65歳なのに)。続いて、小木貞孝(加賀乙彦)さんは上智大へ、宮本忠雄さんは自治医大に転出され、それやこれやで精神病理学への途が遠ざかった気がして精神科に進もうという私の思いは挫折してしまいました。教育学部進学の夢は高3の半ばで潰えていましたから、2度目の挫折です。人生は「予定」通りにはならないとも思いますし、「塞翁が馬」だとも思います。

   こんなことを思い出したのは「だめですね」「だめですよ」という意味の言葉から語りだす人も、医者と教師と中・老年(男性とは限らない)だなと気づいたからです。病院では看護師も。家庭では親、もしかしたら配偶者も。
  開口一番「こんなことじゃだめですね」と言う医者にかかりたい患者さんがいるでしょうか。患者さんだけではありません。たとえば若い人たちに向かって「最近の若い人はコミュニケーションの力が落ちている」と話しだすことも同じです。「だめですね」は、途中に入れても駄目そうですね(あ、自分も言っている!)。「だめですね」という意味の言葉を聞いて、「そうか、自分が間違っていたのか。それでは、話をよく聞いてみよう」と思う人よりは、その言葉を聞いたとたん「また、その話か」と辟易して(たいてい何度も聞いているか、自分でもすでに感じているものです)、そのあとの話を聞かなくなる人・反発しながら聞く人の方がずっと多いのではないでしょうか。「あんたには言われたくないよ」とか、「あなたにはわかっていないのよ」「私のこと、知らないでしょ」と思いながら聞く人も少なくないでしょう。コミュニケーションは、伝達や説得、矯正、教導という姿勢からは始まらないのです。「これは難しいことだ」と言って教育を始めるのも同じです。「医療の場のコミュニケーションは難しい(んですよ。だからコツを教えてあげますね)」というような言葉を聞いたとたん、「ふん」と思う人がほとんどだと思います(そんな意味のことを言われたことが何度かあります)。
   上で引いた「心の風物誌」の文章のすぐあとに「お前はだめだ、お前はだめだ、とくされつづけた若者は非行化する」と島崎先生は書いていました。

   患者さんへのインタビューでは、患者さんの話す言葉をただ聞くだけではだめで、患者さんの言葉に「なぜ」という疑問を持たなければ不十分だという意味のことを書いている人がいました。ふだんの患者さんの暮らしぶりが生き生きと(3次元的に)見えるように聞かなければとNo.134で書いたことは、こんなふうに言うこともできるのだと感心しました。ただ、これだけしか言わないと、コミュニケーションを妨げる「なぜ」を言う人が出てくるかもしれません。「なぜ」には、相手を受け容れる「なぜ」と相手を拒絶する・非難する「なぜ」があると思います。「どうしてなのですか」「なぜですか」と尋ねる声は、医療者が思う以上に患者さんには強く聞こえがちですし、詰問されているように感じてしまう人もいるでしょう。そうした「なぜ」に、患者さんは弾き飛ばされてしまいます。それに、人には答えられない「なぜ」も少なくありません。「なぜwhy」よりも「なにがwhat」「どのようにhow」という具体的な行動や出来事の記述、そのときの経験や思いを尋ねる方が良いという人もいます。
   「なぜ」という言葉を、相手に対して問いかける前に、「なぜ自分はこのことを尋ねたいのだろう」「なぜ自分はこれ以上尋ねなくてよいと思うのだろう」とまず自分に向けた時、「この人はどのようにしていたのか教えてほしいな」と相手の暮らしに思いを巡らした時、「なぜ」は温かいものとなり、相手を受け容れる扉が開くのではないでしょうか。医者や教師の中には、若い人でも、「なぜ」を自分に向けることが不得手な人がいるようです。

   自分の文章や講演を振り返ってみても「だめですね」「なぜ、こんなふうなの?」が少なくないのですから、「物言えば唇寒し」ですが。(2015.02)

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