東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.200

夢を交わらせたい

日下隼人   臨床研修指導医養成講習会という言葉を聞くと、「指導の方法(技法)」を教えてくれる会だと思って参加する人が少なくありませんし、事実そのようなセッション中心の講習会もあります。私が関わっている講習会はカリキュラム・プラニングの体験をしてもらうことを中心にしていますので(2014年からカリキュラム・プラニングのセッションは必須になりました)技法についてのセッションはあまり多くないのですが、参加者の振り返りでは「コーチング」など指導方法のセッションが印象に残ったという記載が少なくありません。でも、そこには陥穽があると思います。「〇〇をいかにうまく教えるか」ということを考える時には、教えていることは適切か(今の医学―自分もそれに取り込まれている―は適切か)という問いや、教えている自分に問題はないか(自分の背中は後進が学ぶに値するものか)という、いささか「不快」な問いを自分に投げかけなくても済みます。医者には教えることの好きな人が多いので、自らを問わなくて済む課題=技法を学ぶことは快適です。でも、今の医学のありようや自分の生き方を問わないままの教育は技術者教育ではあっても(私はそれも大切だと思っているのですが)プロフェッショナル教育ではないでしょう。今の医学のありようや自分の生き方を問いつづける自分の姿を見てもらうことのほうが、教育ではないでしょうか。

   カリキュラム・プラニングでは、あるテーマについて「目標」「方略」「評価」をグループで作り上げてもらいます。はじめての言葉がいっぱい出てきますし、短い時間でまとめるとなると、何をしているのかよくわからないまま終わってしまったという感じを抱く参加者もおられますので、ここ数年3つの作業が終わったところで、カリキュラム・プラニングの意味についてお話ししています。最近、このお話の最後のスライドで、「目標」→「方略」→「評価」という流れは、「夢」→「ワクワク」→「達成感」ということではないでしょうか(それは私たちの暮らしの中で日々体験することでもあります)とお話しするようになりました。もちろん、この夢を抱くのも、ワクワクするのも達成感を持つのも、研修医です。指導医の中には、人を評価(特に総括的評価)することにワクワクする人もいるでしょうし、自分が気に入る研修医を作ることに達成感を覚える人もいますが、この場合はあくまでも研修医が主語です。
  指導技法をあれこれ考えて工夫するということは、「ワクワク」を大切にするということです、でも、それだけで良いでしょうか。大切なのは「夢」が適切かどうかということです。最近「人を殺したい」という夢を、ワクワクしながら準備して、達成感に溢れたツィッターを書いた人がいます。ワクワクを中心に考えるだけでは、足らないのです。もちろん医療の場でこのような夢を掲げることはありませんが、夢の中身は姿勢によって異なります。
  たとえば「チーム医療」。「受け持ち医が中心になって、看護師などの専門職が力を合わせること」と考えるか、「(事務職、看護助手、ハウスキーピングなど医療の国家資格を持たない人を含む)医療に関わる人がみんなで、患者さんのために力を合わせること」と考えるか、「患者さんを含むみんなが、患者さんの問題の解決のために力を合わせること」と考えるかで、「夢」=「目標」の中身は変わってきます。どのようなテーマについても同じようなことが言えると思います。そこに、私たちの思想、姿勢が生きています。
  「目標」を考えるということは、私たちのしている医療の意味を問い返し、自分がどのように関わるべきかを改めて考え、その上で若い人たちに何を伝えたいかを求めていくことです。「教育とは伝えることだ」というのは鷲田清一さんの言葉ですが、そう考えれば大切なのは伝える方法ではなく、何を伝えるかです。伝えたいものがしっかりしていれば、そして「伝えたい」という熱い思いを感じとってもらえれば、方法の如何によらず思いは伝わるものです。

   講習会で、『権威的な指導は良くない』と言われるけれど、そこから反面教師で学ぶこともあるのだから、一概にそうは言えないのではないか」と言う人がいます。私自身、今考えていることのかなりの部分は、たくさんの人を反面教師として身についてきたという気がします。ある考えが自分のものとしてしっかり根付く時には、たいてい反面教師がいて、自分の考えを強化してくれるものです(だから、私は本当にそうした人との出会いに感謝しています)。「悪いもの」を見て反面教師として学べないような人は、「良いもの」を見ても学べない、というのも事実だと思います。けれども、反面教師からだけで学べるでしょうか。「真似びたい」と思う先達がいるからこそ(私の場合、医者は少なかったかも)、反面教師を見ることと相まって人は変わっていくのだと思います。反面教師はすでにいっぱい用意されているので、「屋上屋を架す」ことの意義を考えなくても良いのではないでしょうか。
   それに、権威的な指導をする医師を見て、反面教師として学ぶ人と、そのまま自分もそうしようと真似てしまう人とでは、後者の方が多いかもしれません(数字としてのエビデンスの出しようのないことですが)。医療の場は怖いところです。舞い上がってしまわないようによほど自分を抑え続けていなければ、いくらでも「上から目線」が身に付きます。後進にも患者にも権威的にふるまうことを「当然」と思うような雰囲気が満ちていて、無意識のうちにその雰囲気に呑まれてしまいます。そのような立ち位置の方が人間は心地好いからです。医師にありがちなことですが、子どものころからそのような立ち位置に居続けてきた人には、そのことへの抵抗はいっそう希薄です。その怖さを伝えることは、権威的な指導ではできません。
   自分がどのような医師でありたいと考えているのか、人とどのように付き合おうとしているのか。その姿勢を伝える(姿勢が伝わる)ことが教育です。権威的にふるまうことで反面教師になれるとしても、権威的にふるまう姿を見せてしまうことはそのような姿勢を「伝えよう」としているのだと受け取られても仕方ありません。「反面教師」と思われるようなありようは、指導医としてだけでなく、医師として・人間としての自分の評価を低めることにしかなりません。そして、その権威的な雰囲気の中で、被害を受けるのは目の前の患者さんであり、未来にその若い医師の診療を受ける患者さんです。
   講習会は、指導医も研修医と一緒に成長できる「研修医指導」を考える場であってこそ、意味があります。目標=夢を考えるということは、私たちが伝えたい夢と、若い人が学びたい夢との交錯するところを求めていくということでもあります。(2015.4)

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