病むとはどういうことか(2)=アイデンティティの崩壊(203まで続きます)
病気になったことの衝撃(この衝撃は病気の重症度や経過の長短とは必ずしも相関しない)によって、その人のアイデンティティは崩壊する。
人は、人生のどの瞬間にも、アイデンティティなしには生きられない。人間はいつも「自分は、かくかくしかじかのものである。自分は、こう考えて、こう生きようとしている」と自分を納得させられる説明なしには生きられない(人はアイデンティティのために生きているとさえ言えそうだ)。この説明が、自分についての自作の物語である。
「自我とは自我の物語である。欲望とは欲望についての物語である。・・・自我の物語の未完の部分についての説明が欲望の物語である。・・・自我の物語は同時に世界の物語、他の人についての物語である」(岸田秀『ふきよせ雑文集』文芸春秋)
「 自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話である。」(R.D.レイン著 笠原嘉訳『自己と他者』 みすず書房)
人は、自分を納得させることができるのであれば、どのように不合理なものでも信じるし、実際に生きることができる。
「人間は、常に自分を正当化する存在なんです。・・・そのジャスティフィケーションが自我ですよね」(岸田秀・伊丹十三『哺育器の中の大人』朝日出版社)
「自己正当化以外の物語は作れない。・・・(そうしないと)自我が保てない」(岸田秀『嫉妬の時代』飛鳥新社)
それまで自分が抱いていた、「自分はこんな人間だから、こんなふうに生きているのだ」という自画像、「自分はこんな人間で、これだけの能力があるはずだから、こんなふうに生きたい。こんなことをしてみたい」という人生設計は、元気な身体を前提として考えられてきたものだから、音を立てて崩れていく。「いつ死んでもよい」とずっと思ってきていたとしても、いざそれが現実味を帯びて表れてきたときにはそれまでの思いとは全く違う思いにとらわれる。これまで描いてきた自分についての思いは根底から揺すぶられ、自分がなにものであるかについて語ることは困難になり、しばしば不可能になる。病気は、すべての計画や希望を跳ね返す壁として立ちはだかる。
たとえ心身の変化という堰が消失しても、もとどおりに人生が流れるかどうかはもうわからない。病院から帰れたとしても、もとの社会に戻れたとしても、それまで自分が親しんできた世界は様変わりしているはずであり、新たな適応に努めなければならないだろうということは想像がつき、その想像が足もとを脅かす。
アイデンティティというものは、何か事件があって崩壊したり、再構築されて安定するというような、確固たる実体としては存在しない不安定なもので、人はどんな時もつねに新しい物語を作り続けなければならない。本当の自我、本当の自分が独立して存在するのではなく、これが本当の自分だという物語(フィクション)を、人はたえず作り続けている。自我とは自我を安定させようという欲望であり、そうすることが人間にとっての至上命令である。自我は他人に規定され、欲望は他者の自我をまねようとするものであるが、常に人間は他人に取り囲まれ、次々と新しい他人に出会うわけだから、人間は生きているかぎりはつねに新たに自我(自我の新しい形、説明、物語)を形成することを迫られ続ける不安定なものである。しかし、その作業が自分なりのペースでそれなりに落ち着いて出来る状況と、ペースがガタガタに乱れてその作業に手がつかなくなる状況とがあり、病むという事態はまさにその後者である。書き続けていた自作の物語の骨格が病気によって崩れ、病いゆえにマイペースで書けなくなったというアイデンティティの危機に人は陥る。
「自我は、他の人が認めてくれるから保たれる」「わたしがわたしであることを、わたしの性質、考え、身分、地位、能力などがかくかくであることを、他の人がみとめてくれている・・・この支えが崩れればわたしのアイデンティティは一瞬にして瓦解する」(岸田秀)。だから、病むとき人は自分を認めてくれる他者を渇望し、それなのに、病むことが一人一人に全き個別的なことであるがゆえにこの渇望が満たされることはありえない。
「本質的に不安定な自我を抱えているわれわれ人間は、自我が不安定であるのはこれこれの原因のためで、その原因を解決すれば自我の安定が得られるという物語を不可欠に必要とするから、・・・(たえず)新しい物語を作らなければならない。」(岸田秀『幻想の未来』河出書房新社)もちろん、「その」原因が「解決」したら、あらたな原因がそこから生まれてくるので、自我の安定は永遠に生まれない。
「病む」とはそのような、人生の嵐のただ中に立たされる事態のことである。心身の不調は、人生の流れを阻むきっかけであり、当面急いで解決されなければならない大問題であるが、そこに病いの本質があるとはいえない。「それまでの自明性が消失し、それまで自分が作り出した主観性的世界からほおり出された」(田口茂「現象学という思考」筑摩選書)病者には、「社会的な問題や心の問題もある」のではなく、自分の人生の問題がすべてである。
病気になることで、人はその人生の軌道修正をせまられ、自分自身の人生設計を変えなければならなくなる。過去の経験や他人の経験は、この危機には無力である。未来は予測できず、過去も役に立たず、過去そのものが見失われる。不安が、病者の心を覆う。病むということは、そのつど人生のはじめての危機的状況を生きることである。病者の生きる危機は、生物体としての生命が最終的には無くなりかねない危機であると同時に、これまで築いてきた社会的存在として自分が維持できなくなるという危機である。病者の不安の根源には、動物としての生命の危機を含むアイデンティティの危機がある。
「人が病に倒れた時、病むのは身体だけでなく精神もなのだということ。そしてそれは病にかかったものだけではなく、周りの者もなのだということを知ってほしい。闘病というのは一秒一秒の苦しみなのだ。そして身体と共に病んでいく心がまた苦しみに輪をかける。・・・・もしかしたら重病なのかもしれないと思った時、それによって想像された人生の展開は大きく軌道を変えていた。自分の日々の思いというものが、いかに、現状が継続するというなんの保証もない危うい基盤の上に成り立っているのかを痛感した。」(ある病者のブログから)
(2015.04)