東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.202

病むということ・ケアするということ(4)

日下隼人     アイデンティティをもたずに生きられない人間は、病気による肉体的な苦痛がどんなに強くとも、病いを得た瞬間から、その新たな事態を踏まえての自分についての新たな物語を描く作業に取りかからずにはいられない。 現に苦しみつつある日々の自分のありようについて、そして自分の未来について、安定した物語(=自分がなんとか納得できる物語)を描かなければならない。
    「人の自己イメージはナルシスティックなものであり、誇大妄想である」と岸田秀が言うように(「ものぐさ精神分析」青土社)、アイデンティティを保つということは、絶えざる自己正当化・自己肯定の過程であり、自分についての快い説明を手に入れることであり、だからこそ自分は納得できるのである。なにかしら自分に都合の良い、なにかしら自分が立派な良い人であると感じられる説明を見つけることができなければ、つまり今の自分のありようを肯定的に考えられる説明が得られなければ、人は生きられない。

    人は病いを得たときから人生の時間軸に沿って、自分自身の過去・現在・未来についての物語の書き直しを始める。自分がどうしてこのような目にあっているか、これまでの人生を振り返り、なんらかの説明を探そうとする。現在のその事態を自分はどんなふうに耐えて闘っているかについて、自分をなんとか納得させられる説明を考え出そうとする。今、この瞬間に現に苦しんでいる自分のありようにも、その苦しさに対して処置をされる自分のありようにも、自分の考える自分らしさが少しでも保たれねばならない。自分を納得させられるような姿で苦しみたい。自分の現にある姿は、どんなに「ぶざま」でも自分の誇りや深い思いの表れである(と言いたい)。(※1)
   (自分が考えているような、つまりそれなりに「立派な」)自分の人格にふさわしい扱いを受けたい。どんなささいなことも、トータルな自分の物語の中で自分を納得させられるものであることを必要とする。自分についての物語が根底から揺れている状況の中にあっても、現にある事態をなんとか説明できる物語を、揺れに合わせて作り出さなければならない。そして、この先の自分の人生が、現在の事態や自分のありようをふまえてどのようなものになるのかという、長期的な人生の展望(=人生設計、あるいはその軌道修正)がわずかなりとも思い描けなければ、今の日々に意味をもたせられない。
  どんなに病いの苦痛にもがいているときにも、怒りや悲しみに取り乱しているときでも、そのことの根底には自分についての安定した物語への渇望がどうしようもなく横たわっている。だが、混沌とした状況の中で、人は自分の考えをまとめることはできないし、整理して語ることはできるはずがない。
    もともと人が持っているアンビバレントな思いは増幅するから、周りの人間からみれば言うことがコロコロかわる。
    病気の人は、驚くほどいろいろな要求をし、医療者には心外な批判をいったりする。「理不尽な」言動をとる。私たちの期待とは正反対のことをしたり、病気の治療に反することをする。どうしても、私たちの説明を納得しようとしない人もいれば、どんなに病気に良くないと言っても自分の希望を通そうとする人もいる。ことさらに私たちをいらだたせようとしているのではないかと思われるようなことを言ったりしたりする人も少なくない。
    だが、病者の拒否や攻撃、医療的な助言の意識的な無視、嘘をつくこと、秘密をもつことなどによって、かろうじてアイデンティティが支えられているのかもしれない。不安や恐れをいくらかでも回避するためのささやかな手段であることも少なくない。
    病者は、自分が病むことへの怒りを、誰からぶつけずにはいられない。そうすることが、いささかなりとも「救い」となる。そして、その怒りの対象には身近にいる医療者が選ばれやすい。怒りは、適度に医者向けられるのが一番良い。それは医療者の受け止め方次第で、「適度」にも「過度」にもなりうる。だから、「恨まれるのも仕事のうち」(春日武彦「いかがわしさの精神療法」日本評論社)であり、「芸の内」なのである。自分の辛さが「わかってもらえない」ことにも「わかられる」ことにも、怒りがふきだす。「わかられてしまう」不快さ、優しさに取り囲まれる不快さのほうが、怒りの持っていき場がない分、深刻である。感謝の言葉さえ、怒りの変容形態かもしれない(この捻じれを一人で抱え込むことでまた患者は苛立つ)。
   だが、どのようなものであれ、それらは他者からの承認を求める行為なのである。

  (※1)「ぶざま」な姿を見せることで、自分の状況をわかってほしい、目を向けてほしいという思いを(無意識に)行動化している場合もあるだろう。他方、医療者に「立派」「おちついている」とみられる人は、そう評価されるようなアイデンティティを保つために過重な負荷を自分に課している可能性がある。
(2015.04)

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