東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.203

病むということ・ケアするということ(5)

日下隼人     どのようなものであれ(延々と理屈を述べる場合でも、医療者にはわけのわからない不満を訴える場合でも、収拾のつかない怒りを表す場合でも、治療の妨げになる希望を言う場合でも・・・・)、病者の言葉や行動は、今はそう言わずにはいられない、そうせずにはいられないものなのだ。理不尽なことを語り続ける人も、不思議なほど理路整然と語る人も、その奥には自分についての安定した物語への渇望が沸騰している。
    そのことを当事者は整理して語ることはできない状況にある。だが、「混乱しているために語ることができない」と自己表明することもアイデンティティを脅かすので、人はなんとか説明をしようとする。これは「しかじかのつもりがあって言ったことで、自分の人生観から言わざるをえなかったのだ」とか「人生観から当然のことをしたまでだ」というように、自分自身についての物語の中で意味づけようとする(つじつまを合わせることができる。ただし、それは当人から見ればということであって、他人からみればその物語はしばしば「つじつまが合わない」)。(※1)。
    そうすることが、自分の考える自分らしさ(=アイデンティティ)を守ることであり、そうすることでなんとかアイデンティティを見失なわずにすむ。現にあるありようや言動が、他人にはどのように否定的なものに見えようとも、理不尽で非合理的なものであっても、それは病むことにより変わってしまった世界の中を必死に生きぬく人が、なんらかの形で自分のアイデンティティをかろうじて確認するために、その時点で与えられた状況の下で考えうる「最善」の形、あるいはそうする以外にはどのようなものも思いつかない最低限のありようなだ。物語を書き直す作業という心の奥の嵐が、そのような形で表層に漏れ出してくる(※2)。その姿、そして今作り直しつつある物語は、病者がいつか新しい物語を安定して書き出す日々に向かうために、病者にとっては避けて通れないものであり、しかもそのこと自体が誰かから「承認」されるなければならない。しかし、多くの場合、病者は自分が確実だと思ってきた世界像にできるだけしがみつくことでアイデンティティの崩壊を極力少なくしようとするので、新しい状況を知覚させ適応させようとする医療者との間には齟齬が生じ、「承認」はしばしば得られない。(※3)
    このようなアイデンティティの模索は、「非理性的」「非論理的」である(人間はもともとそのような存在であるが)。非理性的状況に居る自分に対して、理性的(らしく)に対応されること自体、その人を苛立たせる。理性的な状態にある人に、自立や通常の礼節を求めることには無理がある。「いま身にふりかかっていることがうまく捉えられないから、ことがらを心の内にうまくマッピングできない。だから、相手との距離を測ることも出来ない。そこにマナーを求めるのは酷というものである。」(鷲田清一「自由のすきま」角川学芸出版)同時に、患者という「非理性的」人間と付き合うことで、医師もまた非理性的思いの渦に多かれ少なかれ巻き込まれる。そのことを自覚しない限り、コミュニケーションは方向が逸れ、医師が非理性的に患者を非難することになりかねない。

   新しい物語を書くという作業のペースがガタガタに乱れてしまった状況に対して、なんとか姿勢を立て直して、病むという事態をふまえての物語を書き直せるだけのペースを取り戻すことが、当面の目標である。アイデンティティの再構築(=物語を落ち着いて書けるペースの再獲得)が目標である。
  病者は肉体的に苦しく、不安と恐れのただ中で、自分をいくらかなりとも納得させられる当座の物語を日々作るという仕事と、同時にこの病いを踏まえてこれまでの人生を意味づけなおしながら、この先の人生設計の全面的な書き直しを行なうという相互に関連する二重の仕事をしなければならない(そのことを自覚したり、対象化したりすることができる状況には生きていない)。今の状況や変化を踏まえての、今の自分について納得できる物語の書き直しは、日々行なわれなければならない。今の物語を踏まえなければ、自分の未来の姿についての物語は書けないのだから、未来についての物語も日々書き直さなければならない。こうして、病者は毎日2つの物語の書き直しをしなければならない。
    病状や検査値や治療が日々変わることも、それらについての説明が日々変わることも珍しいことではない。また、いつまでも結論の出ないこともあるし、症状がしだいに悪化していくこともある。そのため、書き直しは遅々として進まず、しばしば日々書き改めねばならず、残りの一生の間書き改め続けなければならないという場合も少なくない。病いの苦痛は、身体的な苦痛であると同時に、絶望や苦悩に耐えながら崩壊した物語を二重に書き直さなければならない苦痛なのである。病いのために、自己正当化・自己肯定の作業が難しくなり、自分についての物語が書けなくなるという意味での「アイデンティティの崩壊」という危機を生きることが病いの本質である。
    人は社会の中、文化の中で病み、癒えていく。病気による身体の変化は自然科学的にとらえられるものではあっても、病いをきっかけとして人間に起きてきた事態=人が病むこと、そしてその病いを癒す医療は文化的なできごとである。医療とは、否応なくそのような病者と医療者との関わりである。病いの対極にあるのは「健康」ではなく、事件が終了した結果にたどりつく、あるいは事件が続いていてもそれが常態となった、「日常性」(※4)であり、その日まで私たちの関わりは続くのである。

※1アイデンティティは「物語」だから、事実とは異なるし、現実を反映しない。人は、アイデンティティを保つためには、人はどのような「おかしな」ことでも言うし、どのような危険なことでも行いうる。そのアイデンティティ=物語を支えるのは、自分の選択を肯定するための理屈の捻り出し・こじつけ(合理化+認知的不協和の低減)、といったものである (岸田秀は「嫉妬と劣等感代償」とまとめている。「負け惜しみ・強がりと屁理屈」とも言える)。不安と不快に包まれる「病む」という混沌の中では、合理的なことは言えないし、理不尽なことを言ってしまうしかなくなる。理屈に合わないことは自分でも分かっていても、それでも大声を出したり、騒いだり、わけのわからないことを言ったりしてしまう。あたれる人には、誰にでも(家族にでも、医療者にでも、たまたま立ち寄ったコンビニの店員にでも・・・・)八つ当たりをしてしまう。
    同時に、どのように混沌とした時であっても、カッコつけないと生きていけない。病むことは、それ自体がプライドが傷つくことである。ゴフマンが指摘するように、人はいつも(このような場合であっても)面子を保たなければならないし、自分が「立派な」(ゴフマンは「品格」と言う)人間であることを示さなければならないのだが、混沌としているために、その努力は成功とは程遠い結果にならざるをえない。成功しないことで、病気になって以来傷つき続けているプライドがさらに傷ついてしまう。
    しかも、そこで「病者として尊重されたい」と言う思い(依存・甘え・保護の欲求)と、病者におさまりたくないという思い(それまでの生活知の枠内での解決への願望・自立への欲求)との葛藤が、さらにその言動を(医療者から見れば)おかしなものにしてしまう。

※2病むという事態に、人は非理性的にぶつかるしかない。その時、自我防衛が働き、時に「人格障害的な側面」が吹き出す。身体の病みは心の闇を開く。「理性的な反応」をしている人は、そのドロドロした思いをオブラートで包んでいるだけである。
   病気を自覚させられた人は、しばしばその事態を否認・隔離したり、怒ったり、取引をしたり、抑鬱状態に陥ったりする。病いを受容すれば、ふつうは、退行と依存が出現してくる。人の「おかしな」言動は、アイデンティティの危機に際して、その動揺を少なくしようとする心の防衛反応であることが少なくない。病状が深刻なのにもかかわらずとても明るくふるまうことが不安に対する“躁的防衛”であったり、つぎつぎと「わがままな」訴えを言いおおげさに騒ぎ立てることが“同一化”の表現形態であることもある。「うつ状態」にならない人はきっといない。一方、医療者の方に自我防衛が働いて、それが病者の評価やケアの方針に影響していることも少なくない。反動形成、合理化、抑圧、投映、否認、取り入れ、同一化といった防衛機制についての知識や「うつ状態」についての知識、人格障害(BPD、自己愛性)、加齢に伴う疾患、年齢に応じた精神状態についての知識は、病者の見守りを続けるためにも、自分の心のゆとりを確保するためにも必須である。
   病者が医療者に対して「抵抗」することは少なくないし、自分の思いからイメージした人間であってくれるように強く期待してしまうこと(転移)や、逆に医療者が病者に同様の思いを抱く(逆転移)ことがある(それぞれに陽性と陰性のものがある)。そのようなことを知らないと、病者の反応をあらぬ方向に受けとめてしまったり、自分の思い込みからの判断を客観的なものと主張してしまうことがある。
   自我防衛やカウンセリングについては、ある程度までは「生活の知恵」でも対応できるが、「うつ状態」や人格障害になるとそれだけでは足らない。しかし、人の心のように曖昧で確たる答えの得られないことに配慮するのを苦手とする医師も少なくない。医療者の連携が欠かせなくなる所以である。
   ちなみに、問題患者に対して非常に攻撃的になる医師の中には、その医師自身に多少なりとも人格障害の傾向があるのではないかと思わされることがある。そうでなくとも、医療者と患者との関わりは、意図しないままシンボリック相互作用になっているので、非理性的な患者の言動に対して医療者の言動も非理性的なものとなってしまいがちである。患者の言動に対して、医療者が怒っているようなとき、実は医療者が非理性的な患者に巻き込まれて非理性的になっていることが少なくない。

※3 マズローの言うように欲求を段階にわけて、その最終段階として“自己実現の欲求”があるというよりも、自己実現の欲求は他のすべての欲求の根底にあると考えるほうがよいと私は思う。生理的欲求も、安全性の欲求も、愛と帰属の欲求も、もちろん尊厳の欲求も、自己実現を求める思い(物語)に支えられて在る。「痛みを取れ」とどなっている人も、同時にその心の奥では「自分はこんな(立派な)人間で、それに見合うように(丁重に)扱われたい」というような自己実現の欲求が渦巻いている。 (A.H.マズロー、上田吉一訳「完全なる人間」誠信書房 )

※4 村上靖彦は「行為の型は、現実に応答した『意味』生成を可能にする能力であり、人間が現実を受容するために不可欠の装置である。このように考えたときに、病とは型の作成の失敗であり、回復とは型の作り直しであると定義できる」と言う。(「治癒の現象学」講談社メチエ)
(2015.04)

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