東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.204

傷つく

日下隼人     人がつらい事態に陥り、その状況と対峙するとき、心が傷つきます。それは当然のことですが、周囲の人も、その人がつらい状況に対峙していることを見るだけでしばしば心が傷つきます。具体的に「○○がなかったから」「△△があったから」傷つくということではなく、そのつらい事態を耳目にすることそのものが自分に襲いかかってくることで傷つきます。それは、相手への「同情」ではありません。人間に不条理なことが起きることを見ることによって人生の不条理さを思い知らされることで、傷ついてしまいます。他人に起きた出来事なのに、その不条理さから目をそらすことができないつらさ、そのような事態を目にしているにもかかわらず自分が手足を出すこともできないことへの「居たたまれなさ」に、複雑に傷つきます。傷ついたとは言っても、自分の傷など本人のそれに比べれば些細なものでしか無いことが十分わかっていて、そのことにも心が疼きます。そして、「他人事なのに」自分が傷ついてしまっていることに気づいたとき、あらためて戸惑い、愕然ともします。このとき私は、その人を私の親密圏に引き入れてしまっているのでしょう(そもそもは、その人のことが「気になる」=その人の親密圏に入ろうとしたことから始まっているのでしょうが)。この自分の傷を癒すために自分ができることは限られているだけに、傷の治りには時間がかかります。複雑な傷の縫合には手間と時間がかかるのです。
    人と人とが別れることにも、人は傷つきます。その別れが永遠のものではなくとも、「幸福な」別れであっても、です。別れの無い出会いはないのですから、人と出会う瞬間から私たちには見えない傷がつきだしているはずです。そして、別れが現実のものになったとき、その傷は一気に私たちを「脅かす」ものとなって表れます。人が病むとき、周囲の人はしばしばこの両方に襲われることになります。

    「共感」というのは相手の気持ちをわかってしまうことではありませんし、「共苦」というのは相手の苦しみを一緒に担うことではありません、きっと。同じ事象について、別々の「苦」を生きる。同じ事象から生じたそれぞれの「苦」をそれぞれの時空で独自に耐えていることを認識することが「共苦」であり、耐えているだろうと相手のことを想像し思いやることが「共感」なのではないでしょうか。
    医療の場では、患者さんの周りでこのような「共苦」的な関わりが日々起きています。周りの人それぞれが別の苦しみに耐え、当事者でないだけに歯がゆく苛立たしい思いにとらわれています。医療者が患者のそばにいる人たちの歯痒さや苛立たしさを軽んじてしまうと、そこから確執が生まれてしまうこともありそうです。「共苦」ということは親しい人との間でしか起きないことなので、親しい人たちの「苦」への目配りを欠くことは、それまでのその人たちの親しいつきあいそのものを否定してしまいます。
   医療者も、患者さんの事態をそばで見ているだけで傷ついてしまうことがあります。「共苦」ということはしようと思ってできることではなく、こちらが「傷ついてしまった」時にしか起きないのでしょう。親しい人同士の間にしか生まれないことを私たちは意識してできるわけではありませんし、すべての人とそのような関わりをする=親密圏に引き入れてしまうとすれば破綻してしまいます。だから、居たたまれなさを感じることがあっても、そこで踏みとどまり傷つかないようになることが医師としての「成長」です。でもそのような「成長」はしきれるものではなく、何歳になっても居たたまれなさから傷ついてしまうことがあります。そのことが医師の次の「成長」を促します。

  私たちはつらい事態の中で傷ついている人に声をかけますが、時としてその言葉は相手のことを慮るようでいて、実は自分の傷を癒そうとしていることがあります。「私」を慮った言葉が発せられた時、その一言に相手が「傷つく」ことがきっとあります。医療倫理の「無危害の原則」には、患者や家族の心を傷つけないということも入っていることを私たちは忘れがちですし、しばしば傷は「善意」からのついたもののほうが深くなってしまいます。でも「どのような一言にも患者さんは傷つく」のかもしれません、もともと傷ついているのですから。「患者を傷つける」「患者を傷つけないように」という上から目線の配慮に、傷ついてしまうこともあるでしょう。傷に触れられることはどんなに優しく触れられても痛みを伴うし、触れてもくれないことにも別の痛みが生まれます。だからこそ、避けがたく相手を傷つけるしかない場で、自分が他者の傷を感じ取る感性をすり減らしながら人と接しているに違いないということを忘れない時にだけ生まれてくる「ためらい」にこだわることには、きっと意味があると思います。それは、患者-医師、おとな-子どもという関係に限らず、友人、恋人、配偶者などすべての人間関係でも同じです。
    傷は時とともに癒えますが、傷ついた記憶は無くなりません。記憶は愛おしくなることもありますが、折にふれ疼くこともあります。心の傷痕も手術痕も同じようなものです。時は最高の癒し手でしょうが、治り方も、必要とする時間もひとり一人違います。傷ついた心の修復に要する時間と「手間」は他人の想像を超えていますし、どんなに時間がかかってもまったく元通りに修復されることはありません。その心のサポートのために他人にできることはほんのわずかしかありませんし、サポートしようと思ってつきあったらきっとサポートできないでしょう。「傷から考えていく道のりがその人の本当の力となる」(大河原昌夫『鶴見俊輔に学んだ精神医療』日本評論社)のだとしたら、それぞれが獲得した力のベクトルは同じではありえません。つきあいが続くということは、その違いにまた愕然としてしまう危険を抱え込むということでもあります。(2015.05)

お詫び No.202 文末の(※1)の前に2行、No.201の文章の一部が入っていました。

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