東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.205

病むということ・ケアするということ(6)

日下隼人     人が「病み、癒える」というできごとは人生の大地殻変動であり、アイデンティティの危機である。人は自然科学で分析される病気を得るが、病いを生きることは自然科学的な知ではとらえられない出来事である。敢えて言えば、病いとは人の生きることに関わる人文科学的な事象である。
    病いの過程は、心身の不調のためにアイデンティティが崩壊し、それを見失う(=自分について自分が納得できる物語が書けなくなる)という危機に始まり、自分が納得できる物語づくりの作業が自分なりのペースでできるという、それなりに立ち直った状態(=日常性)を獲得することで終わる。治癒とは、日常性の回復のことである。患者はこの過程を孤独に、自分一人で成し遂げるしかない。そして、一人で成し遂げる力を人は誰もが持っている。患者は一人で成し遂げるしかないのだが、アイデンティティとは他者の承認があってはじめて成り立つものだから、その意味では、自らの物語を承認してくれる特定の「他者」(複数)なしにはこの作業を成し遂げられない。その他者に信頼感を抱けなければ書き直しはできない。そしておそらく、その他者の中の少なくとも一人は医学的知識を持った人間であることが必要である。患者とは、そのような他者探しをいやおうなく始めざるをえない。そして、承認してくれそうな医療者を「選んで」、自分の思いを、そっと差し出し、あるいは激しくぶつける。しかも、承認を求めてそのような選択を行うことは、同時に、自らにふりかかった危機の管理の少なくともある部分を他人に委ねることで更にアイデンティティが脅かされるという二律背反的な状況を生きることになり、患者はいっそう不安定な状況に入り込むことになる。
    そのとき、当の医療者が、そのような状況の患者に自分が選ばれて、言葉がかけられているのだということに気づかなければ「不幸な」齟齬が生まれるしかない。

    かつて私は、こんなふうに書いた。(『ケアの情景』。 No.141、159でも書いた。)
    患者のアイデンティティを支持し肯定していくことを通して、医療者のアイデンティティは患者のアイデンティティと切り結ぶ。私が患者を「承認する」ことと、私が患者に「承認される」ことが並行して進行していく時、ケアが芽生える。そのかかわりが深まることを自らのアイデンティティの深まりと感じて、私は心躍らせながら仕事をしていく。M.メイヤロフは「他の人々をケアすることをとおして、他の人々に役立つことによって、その人は自身の生の真の意味を生きているのである」と言い、また「相手の成長をたすけること、そのことによってこそ私は自分自身を実現するのである」とも「私は、自分自身を実現するために相手の成長を助けようと試みるのではなく、相手の成長を助けること、そのことによって私は自分自身を実現するのである」とも言う(『ケアの本質』ゆみる出版)。
    患者が書き直す物語はその人ごとに違うものであるから、見守りながら歩む私自身もそのつど自らの物語を書き直し、変わっていくことになる。患者の存在により、私は自らの自明性が問われ、生きかたが問われていく。同じように生きる人間として、孤独に物語を書き直す患者を見守り、自らの新しい物語を書き直すということは、自分自身の生きる意味(=アイデンティティ)をそのつど見つけ直すことになる。それを可能にするのは、経験の重みではなく、そのつど新しい物語を生きることにワクワクする弾むような心である。新しい物語を書くことに私の心がときめかなければ、なにも生まれない。
   患者と私とが、それぞれ自らの物語を書き直すという作業を同時に行うことにおいて、そこにかよわく危うい人生を生きる者どうしのある種の連帯が生まれる。ともに歩くということは、ともに変わるということであり、ともに1つの物語を書くことである。他者の生と関わることで、私は自らの生きることの意味を手にすることになる。このような付き合いの中で、私は、私自身がケアされていることに気づく。患者も、私をケアしていくのである。そして、患者が一人で確かに歩けるようになったとき、私たちはそれぞれの道を別々に歩いていくことになる。(※1)

  医療に関わる一人の人間としての実存的な意味は、このように言えると思う。だが、この過程に、誰もが心躍らせたり、ワクワクしたりするわけではないだろうし、患者とのそのようなつきあいをすべての医者に求めることは過剰な要求であるとも私は思うようになった。
    医者が学ぶべき医学の知は膨大でありたくさんの磨くべき技術があり、日常業務は多忙である。
    自分の人生での価値の置きどころは人によってさまざまである。若い医者は、新しい知識や技術をつぎつぎ身につけなければならないし、それが身につくと嬉しく、他の人より秀でているとなお嬉しい(小さい時から競争社会を生きてきた人間の宿?である)。もともと勉強が好きな人たちだから、そのこと自体が楽しい。
    どんどん「力」がついてくると嬉しいだけでなく、自分がどんどん大きく見えてくる。医者になって数年〜十数年の間、「天狗」にならない人はまれである(その後も天狗状態が続いている人が時々いるが ※2)。人はもともと他人を「見下ろす」ことには快感を抱くことになっており、とりわけ小さい時から「人の上」に立ってきた経歴を持つ医者たちはその魔力の虜になりやすいので、「する−される」「見る−見られる」の構造の中で「する者」「見る者」としての立場は強化されがちである(※3)。
    知的興味として患者の個性を排したところでの科学的思考の下に明らかにされる新しい学問的知にワクワクするし(今日の医学的知の成果がこの態度なしには得られなかったことは軽視されるべきことではない)、患者のばらつきは生物学的な範囲で見ている方が楽である。患者を生物学的にだけでなく少しは広く見ようとしても、「医療は医学の社会的適用である(武見太郎)」という数十年も前の「能天気な(野村拓)」言葉に留まるのがふつうである。医療は社会の生物学的適用であるとは考えにくいし、そのように考えようとすると今度は社会構成主義の落とし穴が待ち構えている。医者が患者の社会的・心理的な側面に目を向けることがあっても、患者のことを操作対象として見てしまう習性がついているので、患者は全面的に操作される対象になりかねない(※4)。
    研究もしておかないと後の人生に不利になるかもしれないから少なくとも「人並み」のことはしておこうと思うし、研究自体は面白い(もともと「生物学に興味があったから」という人は多い)。自分の持ち時間は限られているのだから、患者さんとのつきあいより研究に持ち時間を充ててしまわざるをえないことも少なくない。学会での業績、学問的業績が第一の目標となる人も少なくない。そして、それらのどれもが「人の役に立ち」「患者の利益」につながる回路を持っている(不利益につながる崖を歩いてもいるが)ので、自分のしていることを肯定的に述べることができる。それゆえ、自分が日々行っていることを否定的に捉えかえす習慣は身につかない(たいていの職業でも同じである)。
    医者は「利他的」であるべきだと言われるが(その通りだが)、そのことは「滅私奉公」的にデートも自分の家庭の平和も趣味も犠牲にすることではない。そんなことは人間的ではないし、だからそのような生き方をしても結局どこかに(最終的には患者に)つけが回ることになる。

    そんな医者に向けて投げかけられる「・・・が良くない」「…ができていない」「医者は病気の知識から説明して、患者の暮らしを見ていない」「医者はもう少し患者の気持ちをわかってほしい」「寄り添ってくれない」といった否定的なYou Messageや「このような視野を持たなければならない」といった義務遂行的なYou Message(これらは、患者からだけでなく、教育者、社会学者、経済学者、倫理学者、マスコミなど多種多様な人から浴びせられる)には、「少しは患者の方を向こうかな」と思っている医者の思いを遮断する力がある。「あなたは間違っている」「足らない」と言われるところから、人は前に進まない。「医者もケアをしなければ」と言う言説は、「ケアしていないではないか」という非難を内に秘めている。否定的な言葉が心に響かないのは、患者も医者も同じである。
    多くの医者はたいていの場合、自己防衛的にそうした言葉をノイズとして受け止め、ノイズなので耳を塞ぐ。
    「昇り龍」の状態にある人にYou Messageを届けることは至難の業である。このような言葉を送れば送るほど、ノイズと受け取られる度合いが増してしまうため肝腎の思いは届かず、言葉を送ったほうは届かないことに落胆し、ますます医者を否定的に見ることになってしまう。この構造は、相手の心に届かないような言葉を、相手の耳に届かないように投げかけているのに、「患者って、なんて分からんちんなんだ」と嘆き、医者の言葉を聴きとれない患者を責める医者の精神構造と同じである。
    そもそも医者であり続けるためには、死への感性を低くする=死への耐性を高めていかざるをえない。死と接する機会が多い医者ほど、その傾向は強くなる(この感性の低下は、「死」から高齢者、障碍者、社会的に問題のある人へと拡大されがちである)。このことは人間として当然の防衛反応である。そして、死への感性を低くすることは、しばしば生への感性を低くすることと連動してしまいかねない(※5)。つまり、医者とは「鈍感な」存在になることで、かろうじて続けることができる仕事なのである。そのことを非難するような言葉は医者を辞めることを求められているように聞こえてしまうので、ますます医者は耳を閉ざしていきがちである(「大変なお仕事だと思いますが・・・」というような言葉も、その底意を感じてしまって同じ結果を招く)。耳を閉ざさない時には、「認知的不協和」が働くので医者の初心がさらに減衰してしまう。それに、患者さんのケアをしたいと思う医者であっても、すべての患者さんと同じように付き合おうとすればその企ては挫折するしかない。人間の数だけ人生の種類があり、医者には想像もつかない人生もあるし、どうしても支えられない(支えたくない)人生もあるのだから。

    これまで私は、若い医師たちがここに書いたような変化=「成長する」姿を少なからず見てきた。そのことに落胆することは簡単だが、私はそのような変化を「良くないこと」というようには考えないでおきたい。それでは、回路が閉ざされてしまう。「自分が正しいのだから、こちら側に来ないとだめだ」という姿勢から生まれるものは、しばしば相互の敵意である。「正義を疑いなく信じる正義家を、私は信じない。そういう人になるべく近づきたくない。仕方なくともにあゆむことがあっても、その人に心をひらきたくない。」(鶴見俊輔『倫理と道徳』岩波書店) 私の思いと違うところがたくさんあっても、そこを非難するのではなく、たくさんの違いの中にある私の思いと同じ部分を見逃さないようにして、そこに向かって話しかけていきたい。外部のノイズに耳を塞ぐ習慣が身についてしまっていてもケアから極力身を引こうとしていても、目の前の患者からのMessage(特にそれがI Messageの場合)のすべてをノイズとして振り切ることは難しい。医者を志した時に抱いた「人の役に立ちたい」と思った初心の記憶がどこかで生き続けているからである。そして、初心から湧き出すほんの少しの心遣いが病む人を支える「力」となる。その初心は、どんなに「成長」しても生き続けていることを信じて、ケアの意味を考えていきたい。

※1ケアは、キュア(医者・看護者の行う医学的な治療)と対概念ではなく、患者を支えようとする私たち医療者と患者とのかかわり全体を意味するものであり、キュアはケアの(重要な)一要素であると私は考えているので、本稿でもそのようなものとしてケアという言葉を用いている。また、本稿での「患者」には、家族や親しい人も含まれている。
※2「医者が万能であると見えればみえるほど、患者は小さく卑小で無能となる。」(中井久夫)
※3医療者も、患者から「見られる側」「される側」でもあるということは、人と人との関係として考えれば当たり前のことなのだが、その視点はしばしば看過され、そのため医者の語る患者−医者関係は歪みがちである。
※4些か牽強付会だが、医療倫理の4分割法も患者を操作対象として見る陥穽を免れていないと思う。あるいはまた、4分割して患者を見ることに「生権力」が貫徹しているのではないかと考えてみることも必要だと思う。
    患者の性格をタイプ分けした接し方が講じられることがあるが、人はそのようには病まない。人の性格にタイプはあるが、タイプを当て嵌めて人と接しようとする人と心を通わせることはできない。タイプを当てはめて接すると、人はどの性格も併せ持っているので別の性格の面から逆襲される(論理的な人だと思って、その面から説明を続けると、その人の感覚的な性格の面からの反撃を受ける)。
※5 「患者の非日常は医者の日常」とはよく言われることであり、私たちが自戒としてこの言葉を自らに言い聞かせることには意味がある。だが、医者は患者の非日常=人生で一回きりの事態を、日々見慣れた当たり前のこととして何も感じなくなっている(ので、その鈍感さを反省せよ)というような単純なことではない。病に苦しむ人を見てしまうことや人間の死に立ち会うことは、どんな経験をしても何歳になっても、人として「非日常」でないはずがない。医者として生き抜くために、この非日常に動揺する自分は「否認」「抑圧」されてきている。患者を傷つける医者の言動は、この「抑圧」から生まれていることも少なくない。自我防衛を指摘しても「症状は改善」しないし、意識化することは「症状の悪化」につながりかねない。批判的な雰囲気で他人から「患者の非日常は医者の日常」と言われることは、そう指摘する人を自分への攻撃者と感じて反発したり、別の防衛機制がはたらいてしまう可能性の方がずっと高い。
    死への感性を低くしつつも生への感性を高く持ち続けている医者は居るし、医者は誰もがそうした医者の存在に「感動」する。だが、医者はそのようであるべきだという他人から言われると、また医者は遠ざかってしまう。(2015.05)

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