東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.206

病むということ・ケアするということ(7)

日下隼人     「病を診ずして、病人を診よ」「全人的医療」「患者に寄り添う」といった姿勢を医者に求めることは、もともと出来ないことを求めているので(そんな複眼を私たちは持ちえない)、そのこと自体が医者の心を遠ざけてしまう。
    患者のほうもこのような言葉を医療者から面と向かって言われるとしたら、たいていの人は違和感や胡散臭い思いに包まれるだろう。患者から見れば、「全人的」と言われたとき、自分の存在のすべてが医者の「支配下」に置かれるような気がして(生権力と紙一重である)、逃げ出したくなる。人は、自分の中で、病気の部分をできるだけ小さくしておきたい。そうしないとアイデンティティが危うくなる。だから、生活のすべての医療のまなざしの下に見られることには耐えられない。病気は、身体の「ごく一部」の不調で、そこさえ改善すれば元の自分に戻れるし、現在でも異常な身体の一部以外のところは(病の悪影響など跳ね返しているので)全く問題がない、というように物心分離し、自分の身体の一部の出来事に病を限局し、自分の心はしっかりしていると思わなければ、アイデンティティが保てない(※1)。自分がまだ「承認」してもいない(それだけの付き合いがない)人が勝手に寄り添ってくるとしたら、それはストーカーのようでさえある。白衣を着ているだけで自分が患者に信じられるはずだという錯覚がまだ医療者の間に蔓延しているが、白衣は患者の暮らしの中に無神経に入り込んでよいと認める「葵の御紋」ではなない。
    「病を診ずして、病人を診よう」という言葉は、患者を対象化して「上から」見るという姿勢を免れていない。患者が、医者に信頼感を抱くのはこのような言葉からではない。患者は、「病気をきちんと診てくれる」人、医者としての自分の仕事をきちんとしてくれる人を信じる。
    医者が検査方針を立て、検査結果を解析し、疾患を診断し、治療方針を提案し、治療経過を評価する。その時、その過程で得られた医学的な知、医者としての考えを、患者が納得できるように伝え、そこで一緒に考えることまでは、医者として当然の仕事である。国家資格の免許証を受けるということは、「そのようなことができる人であってね」という人々の願いに応えるということである。医者としての考えや思いが伝わらなくては医療がうまく行かないのだから、「伝えたい」とはどの医者も思っているはずである。その医者としての思考がうまく伝わらない(感じ取れるように発信されない)時に、医者への不信や不満が生まれる。誤診があった場合でも、そのこと自体が責められるよりは、診断に至るプロセスで患者が尊重されていなかったことが責められることのほうがずっと多い。
    「知識を獲得する前提条件として、『この先生は信頼できる』と感じていたことが重要なのです。そう感じたとき、その知識は初めて真理になる。それで信じられるという気分になる。それがないと、いくら知識を聴いたとしても、信じるというところまで至らないのです」(大澤真幸の言葉/熊谷晋一郎『痛みの哲学』所収 青土社)。医者の言葉は難しく、患者は医者の言葉を聞けるだけの心のゆとりがない。だから、この信頼は、患者の想いをきちんと聞き、病気のことを相手が受け入れられる言葉でしっかり伝え、自分のできる範囲でそばにいることを伝えることからしか生まれない。関係は循環した構造となっているのである。技術=「手あて」の「手」が粗雑な時にも、信頼は生まれない。「患者の思いを丁寧に聴くこと」、「相手にわかる(納得できる)言葉で説明し、話し合うこと」、「相手に敬意をいつも持ち続けて接すること」の3つ、医者に求められるコミュニケーション力(技法)はここに尽きるのである(※2)。
    「相手の話を聴かない」、「自分が分かっていることを (相手の理解を斟酌せずに) そのまま一方的に話す」、「教えてやるという姿勢で話す」のでは、こちらの考えも思いも伝わらない。「話しても聞いてもらえない」体験をした人は話すことを断念するが、そのことを「話すことがない」→「不満も疑問もない」と医療者は錯覚しがちである。そんな「聴いてもらえない」日々が積み重なっていくと、ある日何かのきっかけで突然「噴火」してしまうしかなくなるのはあたりまえのことなのに、そんなことは医療の場でなくとも同じことなのに、そのことに驚く医療者も少なくない。そうした事態に驚くこと自体、「上から」目線で関わり続けてきたことの証である。

※1「しばしば悪しざまに語られる心身二元論だが、そのお蔭で「悪いところ」を限局して考えることができ(心身全体が病に蝕まれていると考えなくて済む)、人はそのことで救われることの方がずっと多いだろう。物心分離の歴史はデカルトよりずっと古いのだし、それなりの理由=良いところがあるのだ。「身体は悪いが、心はしっかりしている」と人は思えるから救われる。現在では「悪いのは身体の中のここだけ」から、「悪いのは遺伝子のここだけ」とどんどん限局されつつある。心でさえ、「心の中のここだけがわるい(だから、そこに向けた薬を使用する)」という「心心分離」が進行しているような印象さえ受ける。もちろん、身心一如は幻想ではなく、身体の病気に伴い心は必ず病む。だが、心が病むことは、患者の自覚から遠ざけられることもあれば、そちらを強く主張することもあり、どのような場合も患者の「自覚」と医者の見る「客観」とは異なっている(それぞれの「主観」の齟齬に過ぎないという考え方もあると思うが)。私たちには、その違いに目配りしつつ、患者の思いをそっと支える「わざ」が必要なのである。
※2 たとえば、Thom DH, et al. Patient-physician trust: an exploratory study. J Fam Pract. 1997;44(2)で、挙げられている医者患者関係で重要となる因子「1.患者の問題を丁寧に調べる。2.患者の経験を理解する。3.患者のことを気遣っていることを示す。4.適切で効果的な治療を提供する。5.はっきりとそしてキッチリとコミュニケーションを行う。6.パートナーとしての関係を築く。7.患者に対して誠実で,敬意を示す。」は、この3つの中に入ってしまう。(2015.05)

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