だからこそコミュニケーションは、聴くことに尽きるのである。
「聴く」ことは、相手を受け容れることであり、受け容れることから信頼が生まれる。受け容れるということは、相手を承認することである(承認は無条件の肯定ではない)。自らが承認されれば、人はアイデンティティを立て直せる。前に進める。「自分のことをわかってほしい」という人は、その人のありのままを「その人の生きる姿」として全体的に了解してほしいのであって、こまごまと・隅々まで「わかられる」ことを求めているわけではない(それは不愉快なことである)。「わかってやろう」という姿勢も不愉快だし、「あなたのこと、よーく分かりました」などと言われることも不愉快である。
私の目の前に立つ患者は、私の前に立つということ自体で私たちに「承認せよ」と迫っているのである(※1)。聴いてもらうことで、人は支えられ力を得る。聴くことなしに、ケアはありえない。聴かないことは、それだけですでに敵対関係である。
「患者理解」ということが、特に看護の世界では良く語られるが、そこには「理解しないとケアできない」「理解したと思わないと不安」という「理解強迫症」があるのではないだろうか。患者理解ができないとケアはできないというのであれば、私たちにはケアはできない。私たちは一人の人間のすべて理解をできるものではない(※2)。一人の人間の人生というのは、誰にも(本人にも)読み込むことのできない分厚い一冊の本のようなものである。その本は、私たちの読解力を超えている。読めないのは、分厚すぎるからだけではない。その本は自分ひとりで書いたものではないし、今も日々書き続けられているし、過去の記載について日々加筆されているし、自分にも読むことができないことが書き込まれている無数のページもある。文字通り「はてしない物語」なのである。医療者は自らの限られた人生観という針の穴から、患者さんの人生を覗き見るくらいのことしかできない。目の前の人の人生の広がりは、医療者の視野をはるかに超えている。だから、「聴けばわかる」のではなく、聴けば聴くほど「見えない部分」が広がる。
「ナラティブ」ということが医療の場で語られるが、患者の語りから患者を理解することも不可能である。患者の言葉は、患者の思い、患者の感覚そのものではありえない。患者は非理性的状況にあるのだから、その思いは言葉にまとまらない(言葉に凝縮する前の混沌とした状況から、無数の言葉が発せられる)。患者の気持ちは確固としたものとしては存在していないのだから、言葉にまとまらない。もともと、言葉は心を表しきれない。人の思いは、大抵の場合アンビバレントなものであるが、それをすべて語ることは難しい。言葉にまとめられるようになったら、そこではもともとの心から何かが抜け落ちている。言葉にまとまったものは、実像から遠ざかる。
語ることは現実とは多少なりとも乖離する。語ることは、自分を納得させられる物語=騙りなのだ。物語はすべてフィクションである。患者自身がそう信じている(信じなければならない)フィクション。「負け惜しみ」「やつあたり」などがないまぜになっているフィクション。人は自作の物語で自分をうまく騙せなければならない。
しかも、意識的であれ無意識であれ、自らの心に秘するところがなければ人はアイデンティティを保てない。秘密の無いところではアイデンティティが保てない。「正直に」すべてを語ってしまえば、人間は破綻する。患者の「秘密を保持する権利」「嘘をつく権利」が保証してくれそうにない人とは、人はそもそも話さない。
物語は、自分が、自分と承認者に向かって話すものであるから、自分のその時の気持ち、話の聞き手、聞き手の態度によって、異なったものになる(「Aさんに言ったこととBさんに言ったことが違う」のは当然のことで、嘘をついているわけではない)(※3)。言葉を発した瞬間に、その言葉自体によって、そして相手の反応を見ることで自分の心は揺れ動くので、次の瞬間にはもう思いが多少なりとも変化してしまう。そもそも、その人の「思い」から言葉が生まれるのではなくて、言葉を発することから「思い」が生まれてくるのだから、思いと言葉はズレ続ける。
この語りは「分析」されることを拒み(「分析対象」にされてしまうことは不愉快だから)、同時に相手にその物語を受け入れ信じることを求める。ケアは「物語を共有する」ところに生まれるのであって、その物語の真否は関係ない。患者の語ることがケアを展開するというよりは、患者の話を医療者が聴くことによってケアが開かれていく。患者にとっては、話を聴いてくれる人が居ることが嬉しい。そのことで支えられる。「現象学」などという難しいことまで勉強して自分の話を聴こうとしてくれる人が居たら、それは嬉しい。「なんとか患者の気持ちをわかりたい(そんなことは無理だということも承知して)」と話を聴いてくれる人がいることが嬉しい(必死な顔をして迫ってこられると鬱陶しい)。そういう医療者は、患者が話し出すと、つい嬉しそうな雰囲気を醸し出す。片方がそう思うと相手も同じような感覚を抱くことになる(嬉しさも嫌悪感も忌避感も相互行為だから)。その雰囲気が、さらに患者を嬉しくする。
言葉の役割は、きっとそれほど大きくない。それに、言葉に一々反応されたら怖くて話せない。だが、嬉しそうな顔は有効である。自分の話を聞いて嬉しさが滲み出ている顔を見ることで、もっと話したくなる。人の嬉しそうな顔を見ることでこちらの心も少し癒されるので、相手が嬉しそうな顔をすること(相手が望むようなこと)を話そうとする。そこには、医療者を支える話をする(ケアする)ことで患者が支えられるという構造が生まれているので、患者はもっと話そうとする。医療者から見れば「患者が本音を言うようになった」「患者のストーリーが変わりだした」ということであろうが、医療者と話すことで患者が自らケアするという展開が進んでいると見るべきだろう。患者のストーリーはきっと変容していくだろうが(alternative storyと言うらしい)、その変化は医療者には見えないところで進行し、ほんとうに変わっているところは語られないだろう(言語化できない)。 こうして、患者理解への志向、ナラティブの志向は、もしかしたら医療者の思いとはずれているのかもしれないが、信頼の扉を開く。
人は「(頭で)理解してほしい」のではなく、「(心で)分かってほしい」のである。それは「はい、わかりました」という返事を返せるようなレベルのことではない。言葉を理解されるだけでは、なおさら隔たってしまうかもしれない。心を聴いてほしい、聴き取るのではなく聴こうとする姿勢を持っていてほしい。「わかってくれない」という患者の訴えは、「分かりつくしてほしい」ということではなく、「(自分ひとりで受け止めきれない思いを一緒に)受け止めようとしてほしい」のに「その姿勢が感じられない」と叫んでいるのである。しばしば私たちの理解を絶するような言葉を患者は話すが、病を得た人の言葉はもともと私たちの理解を絶している。そのような言葉を発せざるをえない事態をありのままに認められてはじめて、自分が受け容れられていると感じられる。
だから、患者の言葉を聞いて患者のことが理解できたと思った瞬間に、私たちの視野は狭くなり、患者は姿を隠そうとする。理解しようとしても、逃げ水を追うかのように患者の思いには辿りつかない。患者の思いは、こちらから理解しようと「攻めて」いくことでわかることではないのだ。けれども、患者の思いは、向こうからこちらに「襲いかかってくる」。(※4) 「理解できる」ことが大切なのではなくて、「理解できない」ことが大切なのだ(※5)。理解できないという不安定さに止まり続けるところに、ケアが生まれる。
他者は、いつも私の理解を超えている。まして、病気になった人のことを十全に理解することは不可能である。だから、しばしば言われる「一切の先入観を排する」ことが重要なのではなく、むしろ最低限の先入観が必要なのだ。どのような病み方も患者の希望通りのものではありえず、患者は「辛く」「悔しい」思いを抱きながら「混沌」とした状況を生きているに違いないということ。これが患者の世界の「地」であり、その地の上にさまざまな絵模様が描かれるが、その絵模様に惑わされないこと。そして、人は「承認」を求めており、その承認は話(心)を聴くことであり、そばに居つづけることに尽きるということ。この先入観という「捉われ」のなかで、患者の横に身を置いて同じ方向を見て、「この人には、事態はどのように見えているのだろう」「この人はどう感じているのだろう」「この人にとって、いま自分(たち)が行おうとしている医療は本当に良いことなのだろうか」と考える時、そこであらためて私の思いと患者の絵模様とのズレを感じることになる。そのズレているところは、きっと「患者理解」への入り口の一つである。
※1「承認を求めること」には「甘え」がある。だが、“甘え”は人と人との円滑な関係を保つことを付き合いの基本とせざるをえない狭い島国、とりわけ病いを介しての人間関係においては、きわめて重要な要素である。岸田秀は日本人にとっての甘えはあらゆるポジティブな関係の基盤であると言い、木村敏も甘えを日本の対人関係の基本属性として肯定的に評価している(木村敏『人と人との間』弘文堂)。人は誰にでも甘えるわけではない。甘えられそうだと判断した人に甘えるのであり、そこには患者の選択があり、そのことをとおして相手を見きわめようとする意志がある。また、甘えることで人は恭順の意をあらわし、それゆえに温かい庇護を求めるという面もある。甘えられた医療者は吟味され選ばれた人である。
※2「他者はいつも『理解』では到達出来ない『過剰さ』を持っている」「他者に『理解』されない場所をもつことによって、『私』は『私』でありはじめる」「『わからない』のが当然と考えるならば、私たちはずっと多くの場合『いっしょにいること』ができる」 奥村隆『他者といる技法』日本評論社
「他者の現在を思いやること、それは分からないから思いやるんであって、理解できるから思いやるのではない」鷲田清一『「聴く」ことの哲学』TBSブリタニカ
「相手の身になって感じたり考えたりしてあげることが究極的には不可能であるという認識は、まさに、私が他者に向かって手を差し伸べることを止めないから、他者に向かって開かれていることを止めないからこそ、得られるのである」酒井直樹『死産される日本語・日本人』新曜社
※3 私が、好意的に見ることで見えるその人と、悪意をもって見えるその人とは、全く違ったものになる。医療面接から得られる情報も全く異なってくる。私が見ているのは、私という存在に向き合い、私に対してある身構えをとり、私という存在に対して反応している患者である。私の方を向いているその相は、多面的でたえず変動する人間の相の1つでしかありえない。しかも、私はその相を、私のもともと持っている色眼鏡(=先入観)によって自分流の見方に従って見ているのだから、私に見えるその人は、どこまでも私だけに見える姿でしかない。別の人は、その人に対面している患者を、その人流の見方で見て、その人だと理解する。「視点の違いによって対象は姿を変えるのだし、そもそも〈視点〉以前に対象は存在しない」(立川健二・山田広昭『現代言語論』新曜社)のだから、私の姿勢によって患者は異なって見える。
そして、それからの付き合いの深まりの中で、私と患者はおたがいに相手の見え方が少しずつ変わり、それに応じて付き合い方がさらに深まり、しだいに相手が多面的に大きく見えるようになる。付き合いの質に応じて、私に見える姿は日々変わっていく。「私がどのように他者を理解するかは、私がどのように行為するかにかかっている」(村田純一「他者と表現」『他者の現象学』新田義弘・宇野昌人編 北斗出版)付き合いが良い方向に進めば、患者の見せる様相はそれに応じて変化するだろうし、敵意があれば全く別の様相が表われる。付き合いを通さなければその人の全体像に近づくことはできない。同時に、その人の姿そのものが私たちの付き合いをとおして日々新たに形成されていく。別の医療者はその人なりに同じような経過をたどるのだから、医療者ごとに患者の評価が異なるのは当然である。そこから「客観」に辿りつくために、私たちはさらにていねいな手探りを重ねていくことになる。
「われわれはもろもろの現象の背後に、現象ならざる何か他のものすなわち物自体があることを許容し想定せざるを得ないのであり、しかもその際物自体は決してわれわれに知らされず、ただそれがわれわれに影響を与える仕方に応じてのみ知らされるに過ぎない」(E.カント「人倫の形而上学の基礎づけ」中央公論新社)。この「物」には人も含まれていると思う。
※4 この「襲いかかる」というのは、私たちが被害者であるという意味ではない。目の前の人の圧倒的な存在感を感じてしまうという意味である。医者も患者にとって他者であるのだから、私たちも他者として圧倒的な存在感を持って襲いかかっているというかかわりの中を私たちは生きている。医者−患者と言う関係性の中では、元気で若く、患者の理解を絶する知識をいっぱい持つ人間が、「傷害的な行為」を行うことを国家から認められているという意味でも、患者は医者に襲いかかられているのだが。
※5 「何とかしてほしい、良くして欲しい」と懇願する者と、「なんとかしてあげよう、治してあげよう」と努める者との間には、その関わりがお互いに誠意と感謝に溢れたものであっても、「する-される」という関係を免れないので絶望的な隔絶が存在する。医療行為は、どんなに善意にみちていても、他にどのような関わり方がないにしても、他人の人生を蹂躙する傷害的行為なのである。どんなに善意からの行為であっても、人の身体をいじり、人の生き死に関わり、人生に介入し、「無神経な」言葉をなげかけてしまう(どのような言葉も無神経である)医者の「暴力性」。そうしたものから目を逸らすべきではないが、この隔絶に耐えられるだけのある程度の鈍感さがなければ医者は続けられない。それが「患者の非日常性」と「医者の日常性」との、越えられない疎隔として現れる。
医者に対する患者の思いが、いたたまれないような複雑な思いを免れないのはそのためである。心から感謝している場合であっても患者が感謝の言葉を発する瞬間に、その心には「さざ波」が立つ。このさざ波=言葉に表すこともできないような複雑な思いは、医者にはほとんど感じ取れないが、患者・遺された人の心にはいつまでも消えずに残り続ける(意識下のことも少なくない)。医者は患者からの感謝の言葉や賞賛の言葉を受けることも少なくはないが、その言葉の奥の「苦味」に気づく医者は必ずしも多くはない。(2015.06)