病むことで、さらに医者に病を説明されることで、患者は病人としての生を生きるしかないと思い知らされる。けれども、だからこそ、同時に患者には「患者という存在=医学の枠」に納まりきらない自分の人生についての思いが湧いてくる。
患者の言葉を聴こうとする医者の言葉は、患者も聴こうと耳を傾ける。患者は言葉の意味を聞き取ろうとする以上に、医療者の「人間」を、言語・非言語を通して感じとろうとする。言葉の表情を通して、その言葉が心から語られているか否かを嗅ぎ分ける。聴く姿勢、説明する雰囲気を通して「この先生は信頼できそう」と感じられてはじめて、患者はその自分の人生についての思いからの言葉をおそるおそる少しずつその医者に投げかける。言葉を投げかけられた医者の反応を見て、患者はその医者との付き合い方を決めていく。(ここで言葉という時、表情や身振りのように言葉になっていない「こと」も含めている。医療者の言葉も、言葉にならない「こと」が含まれる。沈黙も言葉に含まれる。) (※1)
「患者の気持ちにもっと配慮してほしかった」「気持ちを知ってほしかった」というような患者からの言葉は、具体的に「○○についての配慮をすべきだ」と言っているというよりは、「患者の気持ちを言い出せるような雰囲気を感じられなかった」「『何か言いたいことがあるに違いない』と思いを巡らしてくれていると感じられなかった」と言っていると受け止めるべきだろう。
「いろいろご心配なことがあると思いますが、どんなことでも構いませんのでお聞かせいただけますか」「ほかに何かお話になりたいことはありませんか、どんなことでもよいのでお聞かせいただけますか」「はじめてお聞きになるような言葉も多かったと思うのですが、ご質問はないでしょうか。どんなことでも構いませんので、お尋ねください」。こんな問いが「自分の言葉」「こと」を発する後押しをする(これらの質問はOSCEで「尋ねなければならない」とされる質問である。OSCEは意外と深いのだ)。
患者が自分の思いを自分の言葉で語りだすことは、医者の説明する医学の枠に入りきらない医療を自らの力で切り開く第一歩である。そこから「全人的医療」の幕が開くのである(それまでは、この幕は開かない)。だから「全人的医療」というのは、「医療の枠組みに入りきらない医療」であり「医療の枠組みから抜け出ようとする医療」のことである。「全人的医療」の幕を開くのも、その後の新たな《枠組み》を決めるのも、進行を司るのも、患者を措いてありえない。患者の思いからの言葉を聴き、その重みを感じた時、私たちには、医学の設定する「枠組み」に留まるかその「枠組み」をずらすかの選択に直面するはずである。「ずらし方」は、状況に応じて、ちょっとはみ出す程度のこともあれば、大幅に枠組みを変えることもあるだろう。そして、これまでも多くの医者は、意識的・無意識的に多少なりとも「ずらして」いるものである。その動因は、一人の人間という存在の重みである。
私たちに必要なのは漏れ出てくる「自分の言葉」を「待つ力」、その言葉を「聞き取る力」である。医療の場のコミュニケーションは、医療の考えを患者に「わからせ」、患者を医療者の敷いたレールに乗せるためにうまく説得することではなく、患者の言葉に耳を傾け、その思いに合わせて医学的に適切な範囲で医療の枠組みをずらしていく方途を見つけ出すために話し合うことなのである。一人の人間という存在の重みを受け止め、患者とともに医療の枠組みをずらす試行を重ねていくことが「病人を診る」ということである。(※2)
患者が語りだす「言葉」のどれかが、私たちの「気にかかる」ときがある。患者が語りだす「言葉」のどれかを聞いた瞬間に、患者のことが「わかった気がする」ことがある(もちろんそれは、勘違いや過剰な意味づけの可能性を孕んでいる) 。気にかかってしまった言葉・わかった気がした言葉から私たちは逃げられない。この「逃げられないで立ち止まっている」人を患者は嗅ぎ当てる。きっと、嗅ぎ当てられたことを医療者も感じ取る。こうして患者と医療者とが出会う。患者のことを理解することに関心がない人にも、患者の言葉が襲ってくる。私たちは、患者から選ばれてしまったのである。何歳になっても、何か別のことで頭がいっぱいになっていても、医療者はそのことを感じて、少なくとも一瞬は立ち止まってしまう。
気になって振り払えない「その言葉」を気にし続け、どうして自分がその言葉にひっかかってしまったのか、どうしてその言葉で「わかった気」がしてしまったのかを考えていくことは、きっと患者理解に通じ、自己理解に通じる道である。私たちは、「わかる」のではなく「わからされる」のである。この逃げようのない事態を考え続けることは、倫理である(※3) (逃げようがない事態に耳目を塞いでしまうこと、選ばれたことを「否認」することは、非倫理的態度である)。「私に要請される倫理とは、『<他者>にみずからの存在を提供することである』。」(野崎泰伸『生を肯定する倫理へ』現代書館)
この「自分の言葉」は、多くの場合、一人の医療者だけでは受けとめきれない。患者の深い思いにこたえられるだけの知恵も力も私たちひとり一人はほんの少しずつしか持ち合わせていないので、言葉を受け止めた医療者がそれぞれの知恵を少しずつ出し合うことが必要になる。しかし、みんなが等しなみに引き受けるということもありえない。
患者にとって、信頼できる医療者を得ることが物語を書き直すためには必須である。その人が、「自分の物語を承認してくれる」ことが必要である。その人は医者とは限らないし、病院に居る人であれば医療専門職でなくともよい。だが、そのような人として多くの人を選ぶことはできない。人は自分のサポートを、多数の人に分散して求めたりはしない。「みんなに」ではなく、ほかならぬ「この人に」分かってほしい。人が何かを相談する時には、自分にyesと言ってくれそうな人をあらかじめ選んで相談するように、「分かってくれそうな人」を患者は見つけ出す。私たちは患者に「選ばれる」のである。選ばれてしまったことを「引き受ける」から、プロフェッショナルなのである。だが、選ばれた人が引き受けることは、後ろから支えてくれる人たち(チーム)がいるという信頼があってはじめて可能になる。それは私という医療者の生き方への他の医療者からの承認であり、私が前に進むことを支えてくれるのもこの承認である。
※1 言葉は必ずしも患者の本意とは限らないし、患者にも本意が分かっていないこともある。だが、私たちはまず発せられた言葉に乗ってみるしかない。言葉の真意は、その関わりの中で生まれる。人の心は、はじめからしっかりまとまってあるものではない。心は、相手の人との関わりの中で生まれてくるものであり、つきあいによって変わってくる。患者が医療者に思いのたけをぶちまける時、もともと言いたかった言葉を突然言い出したというより、言ってもよいと思えた相手に出会ったことで混沌とした思いが言葉に凝集してきて、溢れ出してきていることの方が多いのではないだろうか。思いがしばしば変わる(「言うことがころころ変わる」)のも、病いと医療者の刺にはさまれている病気の人にとっては、当然のことである。あるいは、つきあいがうまくいきだしたから、思いがころころ変えられるようになってきたのかもしれない。
相手のことが「わかる」ということは私のことが「わかられる」ことと同時に進むことであり、相手の「心を開く」ことは私の「心を開く」ことと同時にしか進まない。自分が相手を受け入れられるように心を開くとき、その開かれた胸を見ることではじめて相手の心が生まれてくる。私の心の何かを感じた人はそこに向かって思いをぶつけてくる。
※2 私たちにはノイズとしか聞こえないような些末な言葉、私たちが「わがまま」としか感じられないような患者の言葉、そうしたものにこそ生権力を突き破る可能性が孕まれているのかもしれない。「患者の中に、はっきりと人に向かって『ノー』と言える力を呼び覚ますことは、われわれの仕事の不可欠な一部である。治療は、どんなに良い治療でもどこかで患者を弱くする。不平等な対人関係はどうしてもそうなるのだ。その不平等感を最低限にとどめ、患者が医者に幻想的な万能感を抱かず、さらりと『ノー』と言えることか必要である。」(中井久夫)
※3 その人のことを気にかけ思いを巡らし続け、その人のことがなぜ気になるのかを考え続け、その人と自分の関わりの意味を考え続けていくときはじめて見えてくる世界があり、そのような営為を通してしか辿りつけない知がある。それは対象への「過度ののめり込み」ではなく、ひたすら「祈る」ことに近い。そのことが、かろうじて患者につながる細い回路を開く。医者は誰もがこのように患者と付き合う必要があるとは思わない。しかし、医者は誰もがこのような場面に必ず遭遇する。そこで考え続ける程度に応じて世界の開けは異なってくる。 (2015.06)