東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.210

病むということ・ケアするということ(10)

日下隼人     自分(医療者)が気になって振り払えない患者の「言葉」を気にし続け、どうして自分がその言葉にひっかかってしまったのか、どうしてその言葉で「わかった気」がしてしまったのかを考えていくことは、きっと患者理解に通じ、自己理解に通じる道である。私たちは、「わかる」のではなく「わからされる」のである。こんなふうにNo.209に書いたが、患者は医者に「気になった言葉に踏みとどまり、自らに問い詰め続けよ」などと「強面に」主張しているのではない。私たちが「逃れられなくなってしまっている」だけである。

    患者は医者に「あれも、これも」と無限に求めるわけではない。つらく心細い状況にある患者は、医療者の温かい言葉や態度を待ち続けているので、少しでもそのことを感じられればホッとする。人は自分の選択や巡り会わせをなるべく「良かったこと」と考えるようにするのだから、患者は自分を担当する医療者の言動をできるだけ好意的に受け取ろうとする(しばしば「過剰に」好意的に受け取る)。医療者の温かさを受け止めるreceptorをいっぱい用意しているので、私たちのささやかな心配りでも「良かった」と感じてくれることになる。診察や検温、注射などの処置、病気の説明のとき、清拭や身の回りの整頓といった日常的な場面での、言葉や添える手の柔らかさに温かさを感じ、「大切にされている」と思う。物語の書き直しは、そのような小さなことの積み重ねによって支えられていく。
    「温かさ」を待っているreceptorは、それだけに「ささやかな」冷たさにも敏感に反応する。だから、患者は医療者のほんの一言でとても嬉しくもなるし、とても辛くもなる。医療者の一言によって、その医療者が神だと思われることも悪魔だと思われることにもなる。同じ言葉でさえ、状況に応じてどちらにも受け止められうる。そしてしばしば、receptorがまず「温かさ」を感じるとその後も「温かさ」を感じ続け、まず「冷たさ」を感じると「冷たさ」ばかりが感じられるようになる。このreceptorは少しでも温かさが感じられれば嬉しくなるようにセットされているので、「温かさ」が多すぎると受け止めきれずに、かえって傷つくこともある。(※1) 患者は「温かいケア」を望み、「温かさに包まれたケア」を受け「手厚い看護」を受けることに感謝するが、そのことは私たちのせいいっぱいの温かさで患者を包みこむことではない。温かさを感じ「見守られている」と感じるだけで、「手厚く遇されている」と感じることも少なくない。     Receptorの中には、「なにごとも悪意に受け取る」「なにごとも僻んで受け取る」「なにごとも裏の意味を受け取る」というようなものもあるが、そのreceptorは温かさがブロックする。

    患者は、医者が忙しいことも実は分かっているし、医学の限界も実は分かっている(ある程度分かっているからこそ、そのことへの防衛として医学に「万能」を求める言葉を口にする)。こんな「若い」医者が人の苦悩を受け止められるとも思えない。もともと、闇の中に沈み自分に向かっている人と、明るさに向かって生きている人とが、つながることは無理なのだ(島崎敏樹)。だからこそ、ささやかな「温かさ」を感じるだけで、人は嬉しくなる。「患者はわかっていないから勝手なことを言う」と思うのは、医者の傲慢である。患者は、時に過大な要求を言うが、その要求が全面的に満たされることを望むというより、そのような「要求」を聞いたとき医者がどのような態度をとるかを見ていることの方が多いのだろう。これまでの経験から「過大な要求」をしなければ「ささやかな願い」にさえ耳を貸してもらえないと悟ってしまった場合もあるだろう。
    患者の「不満」を聞いた時、そのすべて応える必要はない。すべて応えようとすれば、こちらが疲弊する以前に、患者の方が「怖くなって」言葉を控えるだろう。不満の3つか4つに一つ、ていねいに応えれば十分である(そこには患者の思いと医師の人生観が交錯するので、どれを選んでも良いということではない)。患者が「(怒りに任せたものではない)不満」を言える状況になっていることは、良好な患者-医者関係の生まれている証である。良好な患者-医者関係がなければ不満を言うこともできない。「何も不満を言わない」「ひたすら感謝されている」状況のほうがはるかに危うい。

    身体の不調を感じ、その不調について医者からの説明を受けることによって、人は「患者という存在」に閉じ込められるが、同時に「患者という存在=医学の枠」納まりきらない自分の人生についての思いが生まれる。その思いからの言葉を口に出すように刺激する「伝達物質」が、「温かさ」を感じ取ったreceptorから放出される。その言葉は、医学の枠におさまりきらない医療の扉を開ける鍵である。その言葉が「気になってしまった」時、扉が開いてしまう。その言葉を聞き逃さず、できる範囲で応えていくことまでが医者の仕事である。できる範囲=限界を見極めておけば、どんなに患者のことを「気にかけても」、患者に「振り回される」ことも「のめりこみすぎる」ということはない。
    「気になってしまった」「わかった気がした」言葉・ことに向かって、医療者が「一言(無言を含む)」「ひと手間」を提供するだけで患者は前を向けるし、物語の次の頁を書くことができる。「一言、何を言えばよいか、どんなふうに言えばよいか」「ひと手間、何をすればよいか」、その選択は短い時間=一瞬で行うしかない。その選択に、自分のこれまでの人生、これまでの思いが凝縮する。この瞬間が自分の人生・自分の思いを凝結させ、同時に、自分の人生・自分の思いをあらためて問いかけてくる。
    自分が生きている世界、そして自分の人生を見つめてきた積み重ねから言葉(非言語を含む)を語ろうとするとき、どうしても私たちは一瞬とまどい口ごもる。患者は、自分のためにとまどってくれる人(そこには、ほんのわずかに嬉しそうな、あるいは悲しそうな表情が伴う)、自分のための言葉を探して「口ごもる」人の存在にうれしさを感じる。医療者が自分のために逡巡する瞬間の中に、人は医療というぬいぐるみを着ている人の生身の姿を感じる(※2)。「倫理的言語は、統辞法を破壊して断定を禁じる懐疑的言説とされている。私たちの日常の発話は、不器用でもどかしい『語り直し』『言いよどみ』『失語』から成り立つ」(合田正人『レヴィナスを読む』NHKブックス) 「言いよどむ」瞬間は、想像力の無いところには生まれない。
    一言・ひと手間がぴったり合って関わりが深まることもあるし、後退ないし一時的に分解することもある。後退することがあってもそれを回復する手立てはあるのだから、後退することを恐れていては何も始まらない。ぴったり合った時、そこで私たちは世界への関わり方を共にしている=相互主観的な関わりが生まれているということも出来るのかもしれない。

    医療という仕事は、人に、「その夢をふくらませることができる場を提供すること」である(※3)。病気の人にとっては、これまで生きてきた個人史を肯定することができ、現在の出会いを喜ぶことができ、未来(残された時間)への夢を育むことができる場。
    「ひとがここにいていい理由をみずからに納得させることができるのは、じぶんがここにいることが別の誰かにとって(どんなに小さくても)意味があると確認できるときである。だれかに、あなたがそこにないと困ると言われる時である」「わたしが『わたし』であり続けられるためには、わたしがわたしとしてまさに消え入りそうなそのときに、だれかに引き留められるのでなければならない。覚えられているのでなければならない」(鷲田清一『しんがりの思想』角川新書)。
    患者は、辛く悔しい思いの中でもがいているが、同時に、「弱い」だけの人ではない。温かいケアを望むが、ケアされるだけの人ではない。患者は、どんなに苦しい状況の中でもケアされると同時に周囲の人をケアしている。「人に気を遣う」「人に配慮する」自分なしには、人は自分を支えられない。「ホスピスで最後を迎えつつある人が最後に見出すのは、他者への奉仕、他者への愛、他者への労わり」であると朝倉輝一は言う(「医療におけるケア概念と他者の問題」医学哲学医学倫理 2003)。患者もまた、医療者のreceptorに受け止められる温かい言葉・温かい表情を届けようとしている。ケアとは、患者と医療者との相互行為であり、共同作業なのである。


※1 このことは「一言、『温か(やさし)そうな言葉』さえかけておけばよい」「ちょっと『温か(やさし)そうな言葉』をかけておいてやろう」「ちょっと口ごもってやろう」ということとは無縁である。このような、『上から』の操作的姿勢は必ず瞬時に伝わり、receptorは冷たさを感じとってしまう。C.ロジャースの掲げるカウンセリング3原則の一つである「自己一致」がここで求められる。つまり、心からの言葉しか伝わらない。

※2 ここで患者との関わりは、カウンセリング的なものとならざるをえない。No.203の注2で精神科的な知が必要であることを書いたが、このような知を持つことは患者との具体的な関わりの中で活かされる。医者がカウンセリングを生噛りすることはかえって好ましくないと思うが、カウンセリング・マインドは必要である(殊更に学ばなくとも実践できている医者は少なくない)。「どうして付き合えてしまったのだろう」と思った時や「どうしてうまくいかなのだろう」と悩んだ時に、精神科的知識はその過程を読み解くことを可能にし、カウンセリングについての知は関わりを後押ししてくれる。ボウルビィ、ウィニコット、コフートなどから学べることは多いと思う。もちろんK.ロジャースからも河合隼雄からも。

※3「患者に寄り添う」とは、このことを忘れないということではないだろうか。そのことは、私たちのほうも、これまでの自らの個人史を肯定でき、現在の出会いを喜び、未来への夢を育むことにつながるはずである。(2015.07)

▲コミュニケーションのススメ目次へ戻る        ▲このページのトップへ戻る

 

プライバシーポリシー | サイトマップ | お問い合わせ |  Copyright©2007 東京SP研究会 All rights reserved.