患者が医療者の「やさしさ」「温かさ」を感じるのは、その「丁寧さ」と「懸命さ」を通してである。「優しさ」とは「人を憂える」ことであるから、「やさしさ」と「温かさ」は通じているが、その思いは「丁寧さ」「丁寧な気遣い」として表れる。「たしかに『こころ』はだれにも見えないけれど『こころづかい』は見えるのだ・・・同じように胸の中の『思い』は見えないけれど『思いやり』はだれにでも見える・・・あたたかい心があたたかい行為になり やさしい思いがやさしい行為になる時 『心』も『思い』も初めて美しく生きる」(宮澤章二「行為の意味」ごま書房)。
「心を込めて丁寧に聴く」こと、「丁寧に言葉を選んで丁寧に話す、話し合う」こと。「頭からの言葉」ではなく「心からの言葉」しか、相手の心には響かない。「丁寧に処置する」こと、「丁寧に触れる」こと。姿勢・言葉・手の「丁寧さ」を通して、人は「温かさ」「優しさ」そして「敬意」を感じとる。言葉に表情があり、手に表情がある。その表情から、心が伝わる。医者としてコアの仕事(本務)を「懸命に」する姿を見るだけで、自分が尊重されていると患者は感じる。(この「懸命」は、「必死に」「血相変えて」「汗水たらして」とは全く異なる) (※1) 自分に丁寧に接するよう努めている人の姿を見られれば、人はホッとする。その丁寧さが、自分が望むような形であればなお嬉しい。「自分(や身内)が大切にされている」と感じる。そのことだけで、人は前を向ける。医者に求められることは、「丁寧さ」と「懸命さ」だけで十分である(その判断は患者にしかできない)。
患者の「自分はこのように他人に遇されたい」「こんなことがしたい」という願いには、どんなにささいなことであっても、その底にこれまでの人生の積み重ねがある。その願いを尊重することが、人としての誇り(=プライド)を守ることである。それは、アイデンティティを守ることと同義である。その人がこのように他人に遇されたいと思うような扱いを受けられないことは、それまでの人生の積み重ねが否定されたとことであり、病むことですでに傷つけられているプライドが二重に傷つけられる。傷ついた心の修復に要する時間と「手間」は他人の想像を超えているし、どんなに時間がかかっても修復されないかもしれない。「傷つけた」人が修復のサポートをするのは至難の業である。それなのに、多くの場合、関わりを続けざるをえない。だからこそ、「丁寧さ」は欠かせない。病のもとで生きる時間は後々に必ず悔いを残すのだから、患者や家族の「悔しさ」を極力少なくするようにと気を配ることは医療者の仕事である。
「温かさ」を感じた人は、その医療者にそばにいてほしいと思う。「いつも」とは望まないけれど「何か辛い時には」「希望する時には」、そして「最期の時も」と。「そばにいる」「共にいる(関心を向ける)」以上のことは、私たちにはできない。それは最高の「献身」である。そして、この「願い」を軽んじてしまうと私たちの医療すべてが軽いものとなり、時には暗転してしまう。
「そばにいる」「共にいる」ことは、ほんとうにそばに寄り添うというよりも、少し離れたところから、気にかけて、見守るということである。片時も相手のこと見つめ続けていることも必要ない(そんな視線は重すぎる)。小さくとも悲鳴が聞こえた時には即座にそちらに向ける身の構え、どのような球が飛んできても受け止めようとする身の構えを保つだけで十分である。発達期の子どもにとって、振り返ればそこでは自分を見つめてくれている保護者の存在が必須であるが、同じように患者が振り返ってみると医者がこちらを向いて座っているというような関係である。相手の「目を逸らさない」関わりに、人は「懸命さ」を感じ取る。(※2)
いざとなったら頼れる、困ったときには支えてくれる、どうしようもなくなったら戻っていってよいと思える人が居るという信頼があれば、人は自らで歩くことができ、物語を書き出すことができる。そして、患者の前進を可能にするのは「この患者はきっと一人で歩き出せる」という医療者の全面的な信頼である。その医療者の信頼を患者に伝えるのは「丁寧さ」と「懸命さ」である。このことはケアでも教育でも同じである、教育はケアなのだから。
医療という仕事は人が「希望」を持って前を向けるように手伝う仕事であり、人の「無念さ」「悔しさ」(※3)とつきあう仕事であり、人の「醜さ」「か弱さ」そして「強さ」を見せつけられる仕事である。なによりも、病むことにより孤独を思い知らされて立ち竦んでいる人とのつきあいである。だからこそ見守るためには人間を愛おしむという心が欠かせないが、その心は自分の人生を愛おしむことなしには生まれない。そして、自分の人生を愛おしむ心も、私たちは患者の「存在そのもの」というメッセージから学ぶのである。日々の診療の中で、少しだけでも手を止め、微笑んでひと手間をかけ、少しだけでも丁寧な言葉をかけることができれば、それは患者の世界を開くと同時に私たち自身の世界を豊かなものにする。(※4)
「(患者の深いところでのまともさを)信じられなければ『念じる』だけで良い。それは治療者の表情にあらわれ、患者に良い影響を与え、治療者も楽になる」「理解はついに『信』に及ばない。『信』ぬきで理解しようとすると、かならず関係を損ない、相手を破壊する」(中井久夫『看護のための精神医学』医学書院)
「自分を全面的に受けいれてかなしんでくれる存在をもつということは、私たちをなんと安心させてくれることだろう。そのような落ちつきを手にいれたとき、私たちはそれだけでもうすでに自らの力で一歩前進することを準備する元気をあたえられたようになるようだ」(有馬道子『心のかたち・文化のかたち』勁草書房)
「医者は医者としてここに介入しようとしてもできないし、かるがるしく介入してはならないのかもしれない。ただ同じ人間の条件にある仲間としてそっと見守ってあげることしかできない・・・・。そういう態度をとる人間が周囲にいるだけで、病める人は『愛』というものを発見する」(神谷美恵子『こころの旅』日本評論社)
「かなしみの人はうれいに沈むことは知ってはいるが、自分がうごくこと(うごかされ、はこばれるのを含めて)には望みを持たぬのである。したがってこの人の願いはかなしんでいる自分をとりまいてさわぎたてずに一人にしておいてほしいということ、さもなければ、自分のなげきをしずかに気ながにきいてくれるなぐさめ手がいてほしいのである。(島崎敏樹『感情の世界』岩波新書) (※5)
「丁寧さ」と「懸命さ」を心がけるところから開けてくる(患者が扉を開いた)世界は、それからの関わりに応じていかようにも展開しうるだろうが、どのような展開も病む人の人生を「添え木」のように支えていき、そのことで私たち自身も支えられていく。ケアとは意図して行うことであるよりも、「医者としての仕事(本務)」を頑張っているうちに、いつの間にかケアが生まれていたというような構造のものなのである。そのことを見極めるのも患者である、患者はその人の人生のプロフェッショナルなのだから。
「良い医者に出会えると良いな」と思って病院の門をくぐった患者が「この医者に出会えて良かった」と思った時が、ケアの生まれた時である。そのとき、はじめて私たちは「病気を診ていただけなのに、病人を診ていた」ことに気づかされる。「病人を診る」ということは、このような順序でしか進まない。その時、医者もまた「この人に出会えて良かった」と思っているはずである。「この医者に出会えて良かった」と思えるつきあいの記憶は、患者にとって遥かな未来の時まで生き続き、その人もその人と親しい人も支えていく。目の前の人に向けて私たちは言葉を掛けているが、その言葉は同時に遥かな未来に向かっても掛けているのである。遥かな未来に初めて孵化する言葉も、きっと少なくない。
「自分を大切にしてほしい」と願い、大切にしてくれていると感じられる人に自分のことを見守っていてほしいという願いは、人が親しい家族や親友・恋人に期待することである。逆に言えば、このような関わりがあるところにしか、「親しさ」は存在しない。「良い医者に出会えると良いな」と願い、医療者の「温かさ」を感じた人は、その医療者にそばにいてほしいと思う。だから、ケアとは、「病む」という状況下における親しい人間どうしの関わりという「当たり前」のことにつきる。ケアは「つらい人のことを案じてそばにいる人が、手を添える」という「素朴」なところを離れてはありえない。それは親しい「隣のオジサン、オバサン、オニイサン、オネエサン」でもできる(にしかできない)ことである。
医学知識や技術を身につけた私たちが、医者であると同時に親しい「隣のオジサン、オバサン」でありつづけるところに、ケアはそっと生まれる。その「素朴さ」は、「洗練された素朴さ」である。もし医者が「普通の人」のふつうの暮らしの感覚・自分の心の中で蠢く「シロウト感覚」から足を離してしまったら、ケアからは無限に遠ざかる。それは「この人に出会えて良かった」という経験を仕事の中では得られない人生を送るということでもある。
目の前の困っている人の力になりたいという、いわば「あたりまえ」の感覚(その思いは目の前の人への「親しさ」がなければ生まれない)が私たちの出発点であったが、私たちの到達すべきところも医学知識や技術を身につけた上でのその「あたりまえ」のところだったのだ。医学知識や技術を身につけることを下支えするのも、その思いである。
「丁寧」に人と接するわざは身内や親しい隣人や恋人、恩師とのつきあいですでに身についているのだから、医療の場のコミュニケーション=ケアに必要なのは、「敬意とほどよい親しさ」で目の前の患者に接しようとする意志だけで十分である。コミュニケーション・スキルの上手・下手やタイミングの良し悪しが問題にならないわけではないが、下手でも「敬意とほどよい親しさ」は相手に伝わっていく。若い医者の心の中にある患者と親しい存在でありたいという思いを支持(指示ではない)し、医者としてそのように患者と接する自らの姿を見せていくことが医学教育の真髄である。
※1 「相手を高貴な人格として、強い人格として、心的な人格として呼びかけよ。そうすれば、あなたが呼びかけるたびに、相手を救っていることになる。」(斎藤啓一『ブーバーに学ぶ』日本教文社)
患者のことを悪しざまに語らない。医学生や若い医者のことを悪しざまに語らない。必ずそこにあるポジティブな芽を見つけようとする。それは、プロフェッショナルとして当然のことである。医者が患者や学生のことを「いやだな」と思ったら、どんなにポーカーフェイスを装ってもかならずその感覚は相手に伝わる。「弱い」立場の者は、そのような敏感な嗅覚で身を守らざるをえない。強い立場の者は、弱い立場の者が自分のことを「いやだな」と思っていることを感じ取ると、「鼻で笑う」か攻撃する。
※2 プライドがそっと守られていると感じた時、人は自分が見守られていると感じる。見守る人は、患者が疲れたときにちょっと腰をおろしたり背伸びするときに使える「足台」のようなものである。足台は足台に留まらず、物語を書きなおすためにうろたえたり身もだえすることのできる「場」を支える柱にもなることもある。今を生きる「場」を自ら用意する力が今は出ない人に、足台がその「場」に形を変える場合もある。時には、花芯を包む花びらのようにその場ごと患者を包み込みように形を変えることが必要な場合もある。とは言え、このような関わりが必要なことは多くはないし、誰もができるわけでもないし、同時に何人もの人に対してできるわけでもない。しようと思ってするというよりは、見守っているだけのつもりが、つきあいのいきがかりで、気が付いたら包み込んでしまっていたということの方が多いのかもしれない。そして、どのような場合も、できるだけ早く「ただの」足台に戻るように努めるべきである。
※3この無念さや悔しさを医療者は垣間見ることさえできず、想像することすら傲慢の誹りを免れない。病むことによって、人をそのような思いの中で生きざるをえないということを先入観として持ち続けることしか私たちにできることはない。
※4 患者の楽しいこと、うれしいことを一緒に楽しませてもらうというところから私たちのつきあいを始めるほうがよいと私は思う。仕事は楽しいほうがよい。楽しいことの探しにくい時もあるが、たいていの場合には、どんな状態の患者の生活にも何かしら楽しいこと、心和むことがある。それに、自分についての物語を書き直すことには、それがどんなに苦しい場合であっても、同時にそこに新しい自分が生まれる楽しさもあるのだ。その楽しさをちょっとだけでも共有させてもらう。患者の楽しんでいることを、そばで一緒に楽しむ。患者と楽しく話せたら、そのときを楽しむ。自分がしたことで患者が喜んでくれたら、そのことを喜ぶ。
自分の楽しいことを押しつけるのではない。自分が先に笑ったら相手が傷つくかもしれないし、自分たちだけが笑ったら周囲の人たちが傷つくかもしれない。もちろん、ただにぎやかにはしゃぐことではない。そのようなことに気を配りながら、自分も楽しくなるということが、患者の楽しいことを大切にすることにつながる。生き生きとしていない医療者が患者を支えることはありえない。
患者の笑顔に、いつも微笑みを返したいし、その笑顔の生まれてきたところを大切にしたい。せっかく仕事をしていて、その患者と出会ったのだから、何かひとつでもその人と一緒に笑える、楽しいことを見つけようという気持ちで仕事をしたい。その人との楽しい思い出を作り、心に温めていくことが、その人と人生をともにすることの始まりである。楽しいことから始める方が、見守ることも続けられそうだ。
そうした思いから生まれてくる付き合いも、患者の苦悩をいくらかは軽くすることがあるはずだし、ときには付き合いが深まって苦悩や悲しみを共有してしまうことがある。患者からの雑談は、患者からのジャブであり、医療者の人間観察の機会である。医療者にとって雑談は、自己呈示の機会であり、雰囲気づくりのチャンスである。さりげない雑談に自分の思いが乗り、そして雑談を通して人は評価される。そこから私たちの付き合いのペースが生まれ、時がたつうちに、気がついたら一緒に歩いていたということが、確かにある。患者は、自分がうれしい時に一緒に微笑んでくれない人に、自分の悲しみを共有してほしいとは思わないだろう。「苦悩の共有」や「自らの人生の深まり」は意図してできることではなくて、手さぐりの付き合いの結果としてそのような成り行きにたどりつくことがありうるというだけのことなのだ。
※5 「しないでいることのなんと難しく、またなんとエネルギーのいることか。」(清水真砂子「大人になるっておもしろい?」岩波ジュニア新書) 気にかけながら手を出さずじっと見守り続けることの大変さから、つい医療者は患者に対して口や手をだしてしまいがちである。ケアは「がまんくらべ」でもある。(2015.07)