東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.212

言温而氣和

日下隼人     ある病院の院長室に掲げられた額に、「言温而氣和」と書かれていました。朱子学の「小学」に書かれている言葉のようです。言葉がおだやかであれば、それだけで心気がやわらぐ。コミュニケーションの一番の目的ってこれだなと思いました。人間のことは、たかだか1000年くらいの時間では変わることがないのでしょう。このことだけ伝えることができれば、コミュニケーション教育の目的は果たせるのかもしれません。言葉が多くなればなるほど思いは通じにくくなります。医者の説明なんか、その典型です。「それさえ守ればあとの細々したことは自ずから身についてくる」大原則だけを繰り返し伝えることが、教育の根本です(私はいろいろ話してしまっていますが)。
    No211で書いたことの繰り返しになりますが、患者さんや家族に「(自分が)大切に遇されている」と感じてもらえるようにと心がけて接していれば、自ずと言葉は穏やかになります。「大切に遇されている」ということを、患者さんは「丁寧に聴く」「丁寧に話す」「丁寧な態度をとる」という医師の姿に感じとります。
    でも、医師として経験を重ねていくうちに真っ先に失われるのが「丁寧さ」です。「馴れ」は丁寧さを蝕みます。まず言葉から丁寧さがこぼれ落ちていきます(何年か前までは始めから言葉が全く「丁寧」でない医者もいましたが、最近ではそのような人は珍しくなりました)。手技も、(特に比較的簡単なものの場合)経験を重ねるうちに慎重さが薄れていきます。「手際よい」ことと「粗雑さ」、「身体にしみつく(自動化される)」ことと「マンネリ」とは紙一重です。診断を進める時にも、これまでの経験の範囲内で考えることが多くなり、思考の幅が狭くなりがちです。治療でも、薬の使用法や副作用、治療プロトコールについて、はじめのうちは丁寧に文献や資料を読み込み確認していたのに、だんだん確認がおざなりになり、自分の記憶だけ実施してしまうようになります。はじめのうちは丁寧に耳を傾けていた患者の希望や訴えも、しだいに「誰でも同じようなことを言う」ように感じて(本当は違うのですよ)、聞き流すようになります。言い換えれば、それは「謙虚さ」が失われる過程です。人への謙虚さ、病気への謙虚さ、そして医学への謙虚さが失われていくことを、医師としての「成長」と勘違いしている人もいます。だから、医療ミスは、しばしばある程度経験を積んだ医師が起こします(初心者もミスを起こしますが、初心者が起こすようなミスは大きな事件になる前にシステムとして対応され、発生を防止されています)。
    丁寧さは、「自分にとって大切な人が『このように』遇されたいと思うように接しているか」と医療者が自らの関わりを心がけることから生まれます(大切な人とは、大好きな家族や恋人のことです)。丁寧さはケアそのものなのです。「○○ケア」という言葉をいくつも目にします(緩和ケア、高齢者ケアのように)。でも、医療は、いくつものケアの木が立ち並ぶ林のようなものではありません。ケアという一本の大きな木があって、ある人へのケアでは緩和の枝が大きくなり、ある人へは高齢者ケアが、ある人へは遺伝子異常のケアが大きくなっているというような構造なのだと思います。患者さんの状態により特定の枝が大きいだけで、幹は変わらないことをしっかりと伝えることの方が大切です。特定の領域のケアについて考えることの意義は、そのことを通してどのようなケアにも共通する幹をしっかりと確認することにあるのだと思います。(2015.07)

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