東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.213

患者の言葉を聞く

日下隼人     「私の言葉に耳を傾けてほしい」と患者さんは思います。でも、患者さんの言葉が「そのまま」私に届くわけではありません。「患者が語りだす『言葉』のどれかが、私たちの『気にかかる』ときがある。患者が語りだす『言葉』のどれかを聞いた瞬間に、患者のことが『わかった気がする』ことがある。気にかかってしまった言葉・わかった気がした言葉から私たちは逃げられない」とNo.209で書きました。耳を傾けても、「気にかかる」=聞こえのは、そのとき私の心の中にあるreceptorに引っかかった言葉だけです。自分の中のどの言葉にreceptorがついているか、自分でもわかっていないことが少なくありません。相手の言葉と触れたとたん、receptorが発現するのかもしれません。相手の言葉を聞いているのですが、実は自分の手持ちの「言葉」を聞いているのです。私の心が受け止めることのできた言葉を組み合わせて、私は患者さんの気持ちを思い描いていきます。相手の言葉に引っかかるreceptorを持った言葉が無いところでは、言葉は聞こえません(そのとき「いくら言っても分かってもらえない」「なんだか話が通じている気がしない」という事態が起きます)。
    そのreceptorは、私が自分の手で作ったものではなく、私が生まれてから今日まで多くの人と関わる中で生まれてきたものです。多くの人の言葉を聞き、その人たちの考えを自分なりに受け止め、周りのひとたちと(自分が考える)「良好な」関係を築こうとする中で、生まれてきたものです。私がこれまで関わってきた人も同じようにしてきていますので、私のreceptorはこれまでの人類の無数の人の声=人類(生きとし生きるものすべて)の歴史とつながっています。receptorを介して目の前の人の言葉と私の心の中に潜んでいる先人の声とが重なります。
    そうだとしても、いやそうだからこそ、同じ言葉でもその意味は私と患者さんとの間では異なり、私の思い描く患者さんはその実像とズレるしかありません。私たちが心から患者さんの言葉に耳を傾けても、患者さんの考えが「ありのままに」私の中に入ってはきません。それでも、私たちが他人のことが「わかった気になってしまう」のは、目の前の人も同じようにこれまでの人類の無数の人の声によって編まれているからなのでしょう。
    私のreceptorに引っかかった言葉を相手の人が口にしたことによって、私たちはどこで通じているのです。その言葉を介して、私たちは対峙し、連帯しています。
    だから、医師はみずからの人生経験に応じてしか患者さんの「言葉」を聞くことはできないのです。医学の勉強だけでは患者さんの言葉を聞きとれません。この人生経験は、いろいろな経験を積むことでもありますが、自分の人生について考えを深めるということでもあります。そして、自らの人生経験を深めてくれるのも、相手の話を(心を)深く「聴く」ことによってなのです。

    「患者さんの語りを聞く」授業や研修が行われるようになりました。でも、そこにも危険があります。「患者さんが言うのだから、そうなんだろう」と、患者さんの言葉に拝跪して、思考停止に陥ることもありえます(それは一人の人の思いであって、その患者さんがすべての患者さんを代表しているわけではないのですが)。そんなとき、患者さんの語りの中の自分に都合良い言葉だけを選んで聞いていることが少なくありません。自分の思いを、患者さんの言葉に乗せて語る人もいるでしょう。
    目の前に患者さんが居るときには「おっしゃる通りと思いました」「貴重なお話を伺えました」「勉強になりました」と言い、患者さんがいなくなると「そうは言ってもね」「ああいう考えの人もいるけれど」と二枚舌の教育をしてしまう場合もあるかもしれませんそして、患者さんの言葉と関係ない医学の講義や診療が次の日からもとどおりに続くことの方がずっと多い。こうした授業を行うことがかえって他の面での自己変革をスル―するexcuseになることもありそうです。「患者さんの語り」を聞くことは、日々の実践を措いてないのです。授業で伝えなければならないのはそのことなのですが。(2015.08)

▲コミュニケーションのススメ目次へ戻る        ▲このページのトップへ戻る

 

プライバシーポリシー | サイトマップ | お問い合わせ |  Copyright©2007 東京SP研究会 All rights reserved.