こんな俗謡があります。
大阪本町糸屋の娘(ここは京都三条などいくつもバリエーションがあるそうです)
姉は十六 妹が十四
諸国大名は 弓矢で殺す
糸屋の娘は 目で殺す
頼山陽の作と伝えられ、起承転結を表す例として有名です。「目は口ほどにものを言い」とよく言われますが、「目は口以上にものを言い」ですね。(この俗謡から漢詩について論じた文章が、私の受けた大学入学試験に出題されました。数学・理科が苦手な私は、国語・英語・社会で点数を稼いで医学部に滑り込みましたので、思い出深く記憶に残っています)。
でも、目がすべてではないようです。「スマイリング・デプレッションでも、顔の下半分は偽れないので、眼が笑っていても、下半分に苦しみがあらわれているので見逃さないように」と神田橋條治さんが言っているそうです(中井久夫「看護のための精神医学」医学書院)。このことは、デプレッションでなくとも同じです。人の気持ちは顔全体に表れますし、顔全体を使って思いを伝えようとします。顔の表情について「怒り・悲しみ・驚きでは顔の上半分、嫌悪・幸福では下半分の影響が強い」「『本能としての表情』は顔の上半分、『文化としての表情』は顔の下半分に出る」などと言われているようですが、いずれにしても顔全体がひとまとまりのものとしてコミュニケーションの重要なツールなのです。私たちは、自分の表情をフルに用いてメッセージを伝えています。
冬などマスクをつけた患者さん(私は小児科医ですから、ほとんどは保護者なのですが)と会話をしているとなにか落ち着かない気がしていたのは、だからだったのでしょう。どんな気持ちで今話しておられるのか、私の説明をどのように受け取っておられるか、よく感じ取れないままお話しすることになり、それがある種の落ち着かなさを私の中に生み出していたのだと気づきました。顔の部分が隠れていると、どこか人と話していないような気がしてきます。とすると、マスクをして話す医療者に対して、患者さんも同じような気持ちを抱いているはずです。接遇では「電話では、顔が見えないので、聞き方・話し方に十分な配慮が必要だ」とよく言われるのですが、マスクをしての会話は電話での会話とほとんど同じなのではないでしょうか。身近で顔と顔とを合わせているので(マスクをしていても)、マスクをしていない時と同じような調子で話しても問題ないと思いがちですが、それは電話でそっけない応答をしているようなものです。いや、目の前に相手が存在しているだけに、いっそう危いのです。E.レヴィナスは「顔とのかかわりは直ちに倫理的なことである」と言います。だとしたら、マスクは倫理の生まれることを妨げているのかもしれません。
以前「マスクをして患者さんと話して良いか」と研修医に尋ねられた時、うまく答えられなかったことがずっと気になっていました。今なら、このような説明をするでしょう。その上で、患者さんの病気をもらう危険性がいくらか増えても(増えないという見解も少なくないようですが)マスクを外すか、マスクをしていないぶんだけ丁寧に会話するかどちらの選択も「あり」だと思うので、「どちらを選ぶかな」とその研修医の選択を楽しみに見ることになると思います。(2015.08)