30年前、私は1ヶ月あまり入院しました(良性の病気だったので、今なら入院さえさせてもらず、外来治療で済まされるような病気でした)。入院中、親しい人がまめに訪室してくれたことは、ふだん話せないようないろいろな話ができてほんとうに嬉しかった。同時に、心待ちにしていた何人かの人が見舞いに来てくれないことに少し不満を言ってもいました。でも、実際には、こちらの都合悪い時に人がたずねて来ることもありましたし、相手によっては、いろいろ話すことに気をつかってかえって疲れることもありました。「先生、ほんとうは悪い病気じゃないの?」などと言われて、小心者の私はけっこう傷ついてもいました。病人は勝手なものです(私だけ?)。
でも、病気の人を見舞うことは、その人にとって心の負担です。
病院の白い巨大な(とは限りませんが)建物を前にすると、自分が病気でなくとも足が竦みます。病院という異次元の世界は普通の人にとっては魔界であり、いつかは不本意なことで受診しなければならない、いやなところです。普通の人には、なるべくなら近づきたくないところですから、そこに近寄るだけでドキドキしてしまいます。白衣の人たちが廊下を闊歩している姿に委縮し、そして器械や薬のにおいに(においがするように感じるだけかもしれませんが)、「死のにおい」を感じさせられます。
見舞う相手の経過が思わしくなければ尚更です。そのような姿を見ることになると思うだけでも、心がざわめきます。そんな姿を見たくないし、相手も見せたくないのではないだろうか。どんな表情で部屋に入り、まずどんな言葉を言おうか。それから、何を話せば良いのだろう。こんなこと、あんなことを言われたら、何と答えれば良いのだろう。うまく「励ます」言葉が言えるだろうか。「冷静な」「温かい」表情を保てるだろうか。そばにその人の親しい人たちがいる可能性も少なくないのだが、そうするとこれまで会ったこともない人とのお付き合いもしなければならない。気は重くなるばかりです。「面会時間は30分以内で」といった案内をしている病院も多いのですが、それはむしろ見舞う人のためになっているのかもしれません。
こうして、何重もの障壁を超えて人は見舞いに来ています。でも、私たち医療者(とくに医者)は、そのことに思いを致して、見舞いに来ている人をねぎらっているでしょうか。見舞ってくれる人の存在が患者さんを支えます(たとえ嫌いな人でも)。見舞う人にそっけなく接することは患者さんを傷つけることでもあるということを、医師の教育の中でもっと伝えられればと思います。
そんなわけで、今度入院したら誰にも言わないでおこうと今は思っているのですが・・・。(2015.08)
このコラムでもなんどか文章を引用させていただいた哲学者の鶴見俊輔さんが7月に亡くなられました。1967年大学に入った私は、当時激化していたベトナム戦争に反対する市民運動に参加しました。そこで「思想の科学研究会」に集まる人たちの考えにふれたことが、今の私の生き方のベースになっています。なかでも直接教えを受けた渡辺一衛先生(当時医科歯科大学教養部の物理学の教授でしたが哲学者でもありました)と今日まで著作を読み続けた鶴見俊輔さんとは別格の恩師です。鶴見さんと同時代を生きることができたことに感謝するばかりですが、もう「今」という時代を共に生きられなくなったことが寂しい。