学生たちの戦争に反対する活動を「『戦争に行きたくない』という利己的・自己中心的な発言である」とブログで非難した政治家がいました。言論は自由ですが、このような発言が許されるのも基本的人権を尊重する憲法のお蔭です。
医師のプロフェッショナリズムの中に「利他主義」という言葉がありますが、利己主義よりも上位のものと考えられているのでしょう。「戦争なんかで死にたくない」という思いは利己主義という言葉に入りきらないと思いますが、「戦争に行きたくない」ということが「人を殺したくない」という意味であれば、それは間違いなく利他主義です。「ベトナムに平和を!市民連合」の合言葉は「殺すな!」でしたし、鶴見俊輔さんは自らの戦中体験について、兵士として「自分は殺されても人は殺さない」「拷問を受けても人の拷問はしない」ことを守ろうとしたと書いています。「国を守るためには人を殺すこともやむをえない」と言うのであれば、それも十分自己中心的な考えです。「殺されたくもないし、殺したくもない」という思いは利他主義−利己主義という枠組みでは捉えられないことですし、世の中の多くのことはこの枠組みでは捉えらないということはプロフェッショナリズムを考える時にも忘れないようにしたいと思います。
「戦争などで死にたくない」「戦争であっても人を殺したくない」という実感は、多くの人間が抱く素朴な感情です。複雑な事柄を考える時、素朴な実感や大原則は、「現実は・・・」という言葉とともに捨象されがちです。でも、どのように複雑なことがらについてであっても、素朴な実感や大原則との間の緊張関係を欠いたまま考えられたものは危い。素朴な実感だからこそ、そこから足を離した議論は平和を蝕みます。「戦争などで死にたくない」「戦争であっても人を殺したくない」という思いからの声が打ち消される社会が忍び寄ってきているような気がするこの頃です。20世紀に嫌というほど見てしまった、社会が集団として一つの方向に流れて行きついには悲劇として終わる忌まわしい経験が繰り返されないという保証はありません。ネット社会には、その傾向を阻止する力があると思いますが、促進してしまう力もあると思います。
素朴で常識的な感覚に支えられた大原則が倫理の基本です。「死にたくない、できれば長生きしたい」という人間としての素朴な思い、「患者さんの願いに応えたい」「患者さんの生きることを妨げたくない」という医療者の素朴な思いとの間の緊張関係を欠いたまま、医療経済や社会情勢といった「大状況」から語られる医療論や病院管理も危い。原則との緊張関係のない医療経済や「死」についての言葉の氾濫は、思考の退行を促します。素朴な思いや素朴な違和感から足を離した医療論は,患者の命を蝕み、医療者の心を蝕みます。(2015.09)