東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.218

正論の呪縛

日下隼人     今年の医学教育学会では、心理学や社会学、人類学、哲学などの視点をふまえた医療=医療行動科学の教育の必要性があらためて語られていました。その通りだと思いながら、そこで語られる「患者 多面的に理解する」という言葉に私は躓いてしまいます。患者さんを、「」という観察対象・操作対象の位置に留める感じが私にはどうしても馴染めません。科学として考えると、患者さんを「対象」として見る立ち位置をとることは免れないことです。でも、せっかく心理学や社会学、人類学、哲学に登場してもらうのであれば、患者さんを「対象として見る」ことを避ける姿勢を伝えるための配慮を中心に据えて語られなければならないと思いました(この世界の人は、もともとそのように考える傾向が強いのですから)。
    行動科学を適用しやすい診療科として在宅医療や慢性疾患、小児科などが、適用しにくい診療科として救急科などが挙げられ、「適用しやすい診療科から広げていきたい」という発言がありました。「救急科」の名前を聞いたところで会場に笑い声が漏れました。
    でも、ここには誤解があり、その誤解がこれまで行動科学の広がりが今一つであることの原因の一端かもしれないと思いました。適用しやすいと思うところから広めようとすると、それは必ずどこかで止まります。止まったのはその診療科に問題があるからだと捉えると、自分のありようを振り返ることもなくなります。適用しやすいということは、相手がこちらに合わせてくれているということかもしれません。少し手間暇や工夫がかかるにしても、「一番難しそうなところ」から始めるほうが良いと思うのですが、どうでしょうか。難しいところでうまく行けば、そのあとは一気に全体に広がるでしょうから。
    救急科は行動科学が「適用しにくい」ところでしょうか。私が救急科の診療を見ていていつも感心するのは、あの切迫した状況の中で、患者さんやその家族に対して心理面での配慮を欠かさず、限られた時間の中で最大限のコミュニケーションを図り、診療については患者さんの社会的状況にも目配りをして瞬時に方針を立てていることです。体系だった教育はされていないこともあるかもしれませんし、難しい「哲学的」な言葉は交わされていないかもしれません。切迫した状況の中でその配慮が十分とは言えないことはあるでしょうしが、切迫しているにも かかわらず「行動科学的」な配慮は生きていると私は感じています。そんな現場の知恵に教えを乞うところから、救急科の医師たちとつながる途はいっぱいあると思うのです。近寄り方が少しずれているのではないでしょうか。親愛の情を込めて握手の手を出しているでしょうか。

      医学教育学会の発表で、研修医や学生のことを「・・・・な子がいます」「この子は・・・・」という人が一人ならずいたことに驚きました。ここ十年余り、学会発表の中への「話し言葉」の混入が増えてきていることや、論文の日本語が粗くなっていることが気にかかっていたのですが、ここも例外ではありません。グローバルという掛け声のもと、英語に傾斜すればするほど日本語への感性はすり減っていきそうですが、ほんとうにそれで日本語を話す患者さんとのおつきあいは大丈夫でしょうか。公的な場で「子」と言ってしまうところには研修医を教導対象として見てしまう「教育する側」の姿勢がうかがえて、寒い思いがしました。教育は私たちの願いを後から来る人たちに受け継いでもらうことだと思えば「子」とは言えなくなるはずです。
    成人教育に限ったことではありません。「あらゆる言葉が、教育という状況に投入されると途端に色あせた言葉へと変貌してしまうのはなぜだろう。教育の世界では、どんな瑞々しい言葉も、砂漠に移植した草木のように、たちまち生命力を失ってしまう。しかも、教育の世界ほど無意味な言葉が氾濫し、生命力を失った言葉が呪縛力を発揮している世界はない」(佐藤学「学び その死と再生」太朗次郎社)。医学教育でも例外ではありません。教育の世界は「正論の呪縛」(雨宮処凛)に囚われやすいのです。(2015.09)

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