東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.219

正義の呪縛(続)

日下隼人     もう8年くらい前のことですが、ある資格試験の小児科の問題を作る機会がありました。私の作成した問題を見た新潟大学小児科教授(当時)の内山聖先生が、ニコニコして「僕、こういう問題好きだなあ」と言いながら問題の不備を教えてくれました(不備だらけだったのに)。「うまく乗せられているな」と感じながら、慣れない場でおそるおそる問題を作っていただけに、その言葉に救われました。
    先日、ある指導医養成講習会のセッションで出された「指導に困った研修医」というテーマについて、「『印象に残った研修医』という言葉でないと研修医の良いところに目が向かない」との指摘がありました。そういえば、「・・・・がだめだ」「あいつは出来が悪い」「・・・が間違っている」「誰それが悪い」というような言葉を、私は言われ続けてきましたし、自分も言い続けてきた気がします。
    このような言葉を言うことを止める。「自分が正しいと主張しない」「ともかく、他人のことを悪く言わない」。そんな姿勢を取ることができるでしょうか。
    いろいろな出来事や他人の言葉への批判も非難も、もちろん自由です。そこから生まれるものがいっぱいあることも確かです。でも、自分の言うことが正しいとは限りません。自分には見えていないことがきっといっぱいあるはずです。「私の考えは間違っているかもしれないけれど、こんなふうに考えています」「自分の考えはどうしても譲らないけれど、それは『好み』の問題であって、自分が正しいとは主張しない」「僕は、こういうほうが好きだなあ」「する方が正しいかもしれないけれど、どうしても私にはそれはできません」というような言い方しかしないことを自らに課す時,はじめて見えてくることがあり、はじめて開けてくる回路があるような気がします。「私の考えを知って下さい」と祈るような気持ちで話す言葉しか、意見の合わない人には届きません(それでも届かないことはいくらでもありますが)。研修医一人の人生のことだってほとんど知ってはいないのですから、その研修医が「だめなヤツ」かどうかわかるはずがありません。
    他人を批判したり責めたりしていると、自分が立派な人であるように錯覚してしまいます。「私の言っていることが正しい」と言い続けていると、同じ思いの人としか付き合えなくなります。違う考えの人との回路が無くなってしまいます。同じ思いの人が集まると、「正しくない」「間違っている」と思う人のことを非難したくなります。非難には非難しか返ってきません。中島みゆきのNobody is Rightという歌が、今テレビのCMで流れています。
    「倫理を考えるとき、一つの正義の大道があり、その道を自分は歩いていると考えることにはあやうさがある。正義を疑いなく信じる正義家を、私は信じない。そういう人になるべく近づきたくない。仕方なくともにあゆむことがあっても、その人に心をひらきたくない」という鶴見俊輔さんの言葉(『倫理と道徳』岩波書店)を、最新刊の「現代思想10月臨時増刊号 総特集=鶴見俊輔」を読んでいて思い出しました。
    医学教育の場は、医学という正義と教育という正義が、正義の二乗になって迫ってくるところです。そのことを息苦しく感じている人は少なくないと思うのですが、息苦しさから教育が語られることは稀です。この関係は、患者さんと医療者との関係でも、社会や政治の活動に関わる場合にでも、同じことだと思います。
    私はこれからもきっと「ともかく、他人のことを悪く言わない」というところには辿りつかないでしょう。年齢を重ねればそうなるということでもないのは、最近ささいなことにも怒りっぽい年寄り(同世代のようです)が多いことが示しています。それでも、このような目標に向かう生き方があることを忘れないようにしたいし、そのように生きている人の姿を見失わないようにしたい。(2015.10)

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