東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.22

窮鼠が猫を噛んでいるのでは?

日下隼人 看護学生が病棟で、その日の実習目標について「患者さんの不安を聞き出したいと思います」と言うことがあります。
実習だからこう言うしかないのでしょうが、埋まっている「不安」を掘り起こすかのようで、ちょっと違うという気がします。「不安」はあらかじめ確固としたものとして存在しているのではないと思います。「不安」というものは、医療者との会話の中で膨らんだり縮んだり、生まれたり消えたりするものなのではないでしょうか。患者さんの心は、医療者との関わりの中で生まれ、刻々と変化するものだということに、医療者は気がつきにくいようです。心があってコミュニケーションが交わされるのではなく、コミュニケーションが交わされる中で心が生まれることのほうが多いのかもしれません。
「医療はサービス業なのだから、もう少し患者への接し方を考えてほしい」という投書に、「医療はサービス業ではない」と反論する人がいました。「患者は医療の限界を知らずに過大な要求をするから、医療が崩壊する」と言う人もいます。確かに、いずれも一理あるとは思いますが、ごく一部の人を除けば、患者さんも、医療がただ「物を売る」サービス業と全く同じだとは思っていないでしょうし、医療に「限界がない」とも思ってはいないのではないでしょうか。そうだけれど、医療者とのつきあいの中で自分が感じさせられた「不快な思い」をなんとか表現したいと切羽詰った時に、「サービス業」という言葉や「もっと生きられたのではないですか」というような言葉を思い出して、「やむなく」使ったということはないでしょうか。
こうした言葉を使ってでも自分の思いをどうしても言いたかった、こうした言葉でも使わなければとても自分の思いは表現できないし、この医療者は自分の思いに耳を傾けてくれるとは思えない。そんな思いにさせてしまう医療者の言葉や態度が先にあったのではないかと振り返らなくて良いのでしょうか。自分が足を踏んでいる人から「痛いじゃないか」と怒声をかけられているのに、自分が被害者のように感じているということはないのでしょうか。患者の声の大きさにあわてふためいて、その事態を生み出したもっと大切なことを見落としているということはないのでしょうか。どのようなつきあいの流れの中でその言葉が発せられたのかという検証抜きに、相手の言葉を「字面」だけで批判するのは、喧嘩をするときの常套手段でしかありません。
そんな声をあげたくなるほどの「不快な思い」とは、自分が一人の人間として尊重されなかった(=「プライドが守られなかった」)ということだと思います。医療の場は本質的に患者のプライドがズタズタにされる(私たち医療者がズタズタにしている)場であるということに、医療者は驚くほど無自覚です。病むということそのものでプライドが傷つき、白い建物の中で白衣を着た専門家に自らの身体を委ねなければならないことにプライドが傷ついています。医療者の「治してあげよう」「教えてあげよう」という姿勢からの言葉にさらに傷つきます。だから、「患者は医療の限界を知らない。そのことを知らしめなければ」という思いからの医療者の言葉は、事態を改善はしないでしょう。「善意」の医療者は、自らの存在自体が相手のプライドを傷つけるということは想像できませんし、自分の言葉が齟齬の原因であるとは考えもしません。言葉の中に無意識に籠めてしまった棘は、相手の方にしか向かっていないのですから。(「地獄への道には善意が敷き詰められている」という警句があるそうです。)
患者さんの絶望は深まり、「怒り」だけが唯一の存在証明に追い込まれて(そんなことは決して少なくない)声を上げたとたん「患者暴力」と言われるとしたら、それは悲喜劇でしかありません。


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