帝国ホテルにおられた村上信夫総料理長(故人)はいつも相手よりも先に、遠くにいても聞こえるような大きな声で「おはようございます」と挨拶しておられたそうです。テレビで見た印象からは、その姿が目に浮かぶようです。挨拶は接遇の基本です。接遇教育で「あいさつは、あかるく、いつも、さきに、(言葉を)つけくわえて」と教えられたこともあります。挨拶してくれないような人を信じることはなかなかできません。私は、これまでの人生で「おはようございます」と挨拶をしたのに一再ならず返事を返してくれなかった人のことは、今も信じていません。
あいさつを交わすことは、言葉を交わす用意ができていることをお互いに確認することですが、同時に、そこに話し手と聞き手の関係が反映されます(滝浦真人)。「おはようございます」にも上下関係が入り込みます。「うん」とか「やあ」とか手を挙げるようなあいさつは論外ですが、大きな声であいさつをすることが力の誇示になることも少なくないと思います。「下位」の人は、少し控えめに、時にはおどおどした感じで挨拶をしがちです。「下位」の人が大きな声であいさつすることももちろんありますが、その場合でも態度で恭順の意を表しています。声の調子、表情、姿勢や身のこなしなどが合わさって言葉の表情をつくり、お互いの位置取りをします。「治してやる」「助けてあげる」という思いが医療者の心には多少なりともつきまとい、その思いは言葉や態度から滲みだしてしまいます。それは、「ありがとうございます」でも「さようなら」でも同じです。あいさつは欠かせませんが、「言えば良い」というものではありません。
No. 190でも書いたことですが、相手の話を聴く時の相槌の打ち方も、「聞いてあげているよ」という上からの印象を与えてしまうものが少なくありません。話し手は、その相槌を聞いて、相手の姿勢を感じとり、相手との位置取りをします。声の調子、表情、姿勢や身のこなしといったもので、それぞれの人が自らの言葉を補正していきます。「うん、うん」は圧倒的に上からの印象ですが、「ふーん」「なるほど」「ほうほう」なども「上から」の印象を伴います。相手の話に異を唱えるような相槌(「ええっ」のような)を打てば相手はその後そのような話を避けるでしょうし、同意する相槌(「そうですよね」のような)を打てばその後は聞き手に気に入られるような話を選ぶでしょう。「承認」の言葉は対等な関係になりにくく、「よしよし」という雰囲気の「上からの」承認か、「ごもっともごもっとも」という雰囲気の「下からの」承認になりがちです。
あいさつは祈りです。”Good morning”「こんにちは」には、今日が良い日でありますようにと祈る思いが込められています。祈りは「上から」のものではありえません。祈る心が感じられなければ、相手は「上から目線」を感じてしまうでしょう。私の挨拶に返事を返さなかった人は、私の雰囲気のどこかに「祈り」とは反対のものを感じていたのかもしれません。
グローバル教育が喧伝され、英語で講義や回診・カンファランスをする大学も出てきているようですが、患者さんと接する医療者の仕事は日本語のやり取りを通して患者さんの思いを受け止めないとうまくいきません(ほんとうは「受け止める」ことも仕事なのですが)。英語でカンファレンスをするとき、言葉に込められた患者さんの思いについての議論は、ますます希薄になるしかなさそうです。そのようなことは看護の仕事で、医師の仕事ではないと私たちは諦めるしかないのでしょうか。テレビのドクターGでも、語られるのは鑑別診断のことばかりです。「スーパーグローバル大学」などというものまで「指定」されているようですが、グローバル、グローバルと右往左往している様子は、鹿鳴館時代とあまり変わっていないような気がします。人の性格も国民性も簡単には変わらないのでしょう。(2015.11)