停年になってからは、ただの乱読でしかありませんが、自宅で「文系」の本を読むことが生活の基本になりました(少しだけ小児科医の仕事をすることや講演に出かけることはあります)。大学5年生の頃、あまり授業に出ないで自宅で「文系」の本ばかり読んでいた時の、少し後ろめたいような気分がよみがえってきます。当時は5年生の終わりころになって、はじめて患者さんと接する内科診断学実習が始まりましたので、それからは欠席ゼロでした(たぶん)。教育学部で教育学を専攻したかったこともありますし、大学闘争が終わってすぐ授業に出ることへの疾しさもありましたが、勉強が嫌いだったのです。そのため、私は今でも医学の基本的な知識について欠如している部分があり、学生の講義や患者さんへの説明の予習をしていて「あれ、こういうことだったのか。これって絶対みんな卒業時点で知っていたはずだな」とがっかりすることが少なくありません。今でも小児科の基本的知識にも欠けたところが少なくないので、よく定年まで勤まったとも思いますし(多くの人に助けていただいたからですが)、定年を機に引退したのは正解だったとあらためて思っています。
医学の勉強をしっかりしておくことはやはり基本だという「当たり前」のことをあらためて思ったのは、「医学生にはもっと社会学、心理学、人類学、経済学、倫理学などの人文・社会科学を学ぶ機会を増やさないと」という言説を見たからです。医者になってからも文系の本ばかり読んできた私ですから、言われていることはもっともだと思います。でも、医学で学ぶべきことは、私の若いころよりずっと多くなり、ずっと専門性が高くなっています。臨床実習の時間もずっと多くなっています。以前教養課程と言われたリベラル・アーツの講義は大学によっては消滅寸前なのも、やむをえないところがあります(もちろん「危機」ですから、賛成しているわけではありません。医学英語ばかりが幅を利かせるのも「危機」です)。このような状況の中で、学ぶべきことを増やそうとする人の言うことに学生が耳を貸すでしょうか。
教育で伝えるべきことは、譬えてみれば「水飲み場」のあり場所です。無理やり水を飲ませることはできませんし、無理やり飲ませたらかえって水が飲めなくなるかもしれません。
患者さんの治療という扉に向かう廊下は一直線に見えるかもしれませんが、その廊下の両脇にはいくつもの扉があります。臨床に従事していけば、廊下の途中にある扉を開かないと前に進むことが難しくなることがきっとあります。「医学をしっかり勉強してね。患者さんとちゃんと付き合ってね。その過程で前に進むことに何か難しさを感じたら、行き詰ったら、そこで立ち止まって、周囲を見渡してみて、横の扉を開けることが解決につながることがあるんだよ。そんな時には、扉を開けることを手伝うから思い出してね」ということが伝えられれば、それだけで良いと思います。途中の扉の奥はどんな部屋なのかということが伝えられれば、それだけで良いのだと思います。もともと教室で教えられたことは心に残りません。学生たちは優秀ですから、その場では「良い点数」が得られる感想や見解を言うかもしれませんが・・・。
「愛国心・道徳心を育てる教育」と言う政治家は少なくありませんが、それは学校教育で出来ることではありません。「愛したくなる国」を作り、「道徳的な生き方を実践するオトナの姿」を見せることでしか、そのような心は育ちません。臨床の現場で、医療者が社会学、心理学、人類学、経済学、倫理学などの人文・社会科学などの「知」を踏まえた臨床を楽しそうに行っていない限り、学生たちはそれを学ぼうとはしないでしょう。英語でのカンファレンスでそのようなことが話されることは絶望的です。
ひとの心は「知・情・意」に分けて考えられます。だが、心は「情→知→意」と進むと山鳥重は言います(「心は何でできているのか」角川選書) 何かを感じて(立ち止まり)、そのことを知的に整理し、その上で自らの生き方としていく意志を持つようになるということでしょうか。「知」が「情」を生むということもたしかにあると思いますが、もともと若い人たちが持っている「情」を私たち先輩が削いでしまわないことのほうがずっと大事だと思います。(2015.12)