血縁の者がかなり具合の悪い状態で武蔵野赤十字病院に入院しました。カルテを見たところ、「『ありがとう』との言葉あり」と看護記録に書かれていました。患者は状況判断ができており、適切な会話ができる状態だという看護アセスメントが読み取れます。けっこう偏屈な人で、これまでの入院でしばしばクレームを言っていた人だったので、私は少しホッとしました。
病気の人は、些細なことで腹が立つと同時に、些細なことで嬉しくなります。思いのままにならない身体を抱えた身として、ささやかなものであっても「手あて」はありがたい。温かさを感じられたら嬉しい。その思いは、言葉で、あるいは手を合わせるような動作で、時にはまなざしで、伝えられます。そのことは、医療者を含む周りの人を支えてもいます。周りの人を支えたいという思いから「ありがとう」と言うこともあるでしょうし、「これからもよくしてね」という思いから言うこともあるでしょう。「ありがとう」と言う人の表情は穏やかに見えますが、お礼を言われているとそのように見えてくるということもありそうです。
一言で人と人とをつなぐ言葉があるとしたら、「ありがとう」です。その言葉は、もう具体的なことについてのお礼ではありません。「ありがとう」のなかに、無限の思いが込められています。
たくさんの悔しい思いがあっても、それでもそれを抑えて「ありがとう」と言います。仲の悪かった人にもお礼を言います。それは反省やこれまでの確執へのお詫びというより「赦し」なのかもしれません。あるいは、何事にも感謝を言える「良い人」であるという在り様を選ぶのかもしれません。それは、ある種の優位性を保つということでもあります。病状が重いときほどそのようなことがあるという気がするのは、その人が俗人を離れつつあること、つまり「仏」に近づいていることにその優位性が支えられているからかもしれません。
「ありがとう」のひと言で、これまでの確執のすべてを一方的にチャラにしてしまう人もいます。
医療の場に身をおいていると、患者さんからお礼を言われことをあたりまえのように思ってしまいます(「お礼も言わないんだよ」なんて思ったりして)。でも、お礼を言う時、どんなに心から感謝していても、それでもその心の奥で悔しさやふがいなさの混ざった複雑なモヤモヤした思いを抑え込むために患者さんが大きなエネルギーを使っているということを忘れないでおきたい。「ありがとう」と言ってくれたことに感謝しつつ、その言葉に自分を甘やかすことなく生きていきたい。どうしても「ありがとう」と言えないまま、あるいは医療者への呪詛を抱えたまま生を終えてしまった人に、お詫びとお礼を言い続けたい。(2016.01)