No.23
何のための面接演習?
先日、星飛雄馬の一家の名前を登場人物にした(キャラクターもそのままで、お姉さんが病気の人という設定でした)シナリオを作ってきて、このように模擬患者をしてくれないかという依頼をいただきました。佐伯さんとも相談したのですが、演習を始めたとたん笑い出す参加者の顔が思い浮かんで、この企画は辞退させていただきました。
教育に「笑い」が必要ないなどと言いたいのではありません。むしろ「笑いのない教育ではつまらない」(森毅ふうに)と心から思います。学ぶべきことがストンと心の中に落ちるとき、「笑い」が大きな役割を果たしていることが少なくありません。けれども、それは全体を「茶化す」こととは別だと思います。このシナリオは宴会芸のノリです。本質ではないところで笑いをとることによって、演習自体が軽いものになってしまい、大切なことが伝わらなくなってしまいます。「笑い」だけが記憶に残り、大切なことを学ぶための演習だとは誰も感じなくなってしまいます。真剣に学ぼうと思ってきた参加者は、こうした企画を行う医療者の姿勢を疑い、「真剣に学ぼうと思う人のことを甘く見ている」と落胆し、このような演習そのものの意義を否定してしまうでしょう。
また、ある医学部の面接実習で、「診察室で医者を誘惑する患者」という設定の模擬患者がいたという話を聞き、佐伯さんも私も絶句してしまいました。この指導者は何を学生に伝えたかったのでしょう。ここで伝わるものは、患者というものは要注意な者であるということ、患者とは真剣に付き合わないほうがよいということ、医者はこのようなおかしな患者も「あしらう」ことが仕事であるということ、模擬患者というのはずいぶんおかしな役でもやってしまう「軽薄」な人間であるということ、などなどいっぱいありそうです。そして、「患者さんと医療者とがお互いに敬愛して良好な人間関係を産み出すことが、これからの医療を良くするためには欠かせない」という思いが伝わらないことだけは確かです。
このような演習を通して学生が学ぶことは、模擬患者演習とは、医者が宴会芸的に面白いことを企画し、模擬患者を思い通りに使用して、医者の「患者あしらい」をうまくする技術を少しだけ身につけるものだということだけです。このような演習は、模擬患者も本当の患者も徹底して見下していなければ不可能であり、学生たちにはそのような姿勢だけが身につきます。患者の性格を類型化し、その型に応じた接し方を教育するのも、患者を見下ろし、自らの操作対象として対象化する医者の姿勢を強化するものでしかありません。
こうして、医学教育は患者さんたちの願いとはますますかけ離れていきます。患者さんの願いをどう受け止めるかというところに医学教育が身を置き続けない限り、日本の医療に未来はないでしょう。