東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.234

深い溝(1)

日下隼人     「叩いても、大声で罵っても、人は心を改めたりはしまへん。怖がるだけだす。本気で思う心しか、人の心には届かへんのだす!」。朝の連続テレビドラマ「あさが来た」の83話で、主人公の白岡あさが叫びます。ベタな言葉だという気もしますが、「本気で思う心」から届けられない限り言葉は相手に届かないというのは、その通りです。それなのに、自分の言葉が相手に届かないのは相手のせいだと私たちは思いがちです。自分の言葉が聞き届けられていない時、自分の「本気さ」が伝わっていないのではないか(そもそも自分は本気ではないのではないか)と人は反省しないものです。それは、患者-医師関係に限ったことではありません。その意味で、コミュニケーションが「届け方の技法」の巧拙の問題として語られることが少なくないのは残念です。
    でも、「本気」とはどんなことなのでしょうか。患者さんの人生に全身全霊でかかわることを「本気」と言うのならば、そんなことができる医師はいませんし、しようと思う医師のほうが「要注意」です。そもそも、他人の思いや苦しみの深いところを受け止めることは誰にも出来ません。患者さんの思いや苦しみの深みを医師は知ることができませんし、そもそも医師は覗こうとしません。覗かれる側だって嬉しくはないでしょう。
    医師が覗こうとしないのは、覗くことで自分が傷ついてしまうことを無意識に避けているということがあると思います。No.204でも書きましたが、人は、身近な親しい人(しばしば、身近でなくとも、親しくなくとも)がつらい事態に陥りその状況に圧倒されている(あるいは、対峙している)のを見るだけで心が傷つきます。人間に不条理なことが起きることを見ることによって人生の不条理さを思い知らされ、傷つきます。他人に起きた不条理さから目を逸らすことができなければ(どうしても逸らしきれません)、そして、そのような事態を目にしているにもかかわらずほんの少ししか(あるいは全然)自分が手を出すことができなければ、その「辛さ」「いたたまれなさ」に傷つきます。
    しかも、患者さんに「手を出す」ことにも傷つきます。他人に「手を出す」ことには傲慢さが孕まれています。なぜ自分が手を出してよいのか(手をだす資格があるのか)、このような関わりで良いのか、関わることがかえって相手を傷つけることはないのか。そのことに気付いてしまえば(必ず気付きます)、傷つきます。ケアが行われる過程で、「手を出される」患者さんは自分がそのような存在であることに傷つきますが、「手を出す」医療者も傷つくのです(もちろん、同時に、お互いに慰撫され支えられもしています)。
    医療の場は人の心の「醜さ」「弱さ」を見せつけられるところであり、そのことを見るたびに傷つきます。そうしたものを見たくない気持ち、そうしたものを見る場面に尻込みする気持ちは必ず生まれてきて、そのことを自覚することでさらに後ろめたさを抱え込み、傷の上に傷がつきます。

    医師になったはじめのうち、夢中で患者さんとつきあい、患者さんの混沌に圧倒され、そこで「傷つく」体験をします。その経験を何度か重ねれば、自分が傷つく事態をなるべく回避しようとします。「回避」には、そのような事態との接触を減らすことだけでなく、そのような心を意識下に「抑圧」して自我防衛していくということも含まれます。
    でも、どんなに見ないでおこうとしても、自分が傷ついてしまう場面に繰り返し出あうのが医師の人生です。それゆえ、医師はその経験が長いほどたくさんの傷を抱えて生きることになります。少し経験を積むようになってからの傷の存在は見えないところに追いやられており、それゆえ傷は癒えぬまま残ります。傷ついたという無意識の記憶の積み重ねが医師の心を作り上げていきます。それでも、その傷の軽快を促進し瘢痕を最小限に抑えるのはその後に続く患者さんとのつきあいです。ただ、新たなつきあいはまた新しい傷が出来ることであり、その新しい傷がすでに出来ている傷の治癒を遅らせることにもなります。
    医師の「本気」は患者のために滅私的に全身全霊を打ち込むことではありませんし、相手の人に全面的に感情移入してしまうことでもありません。病気についての適切な知識を持ち、手技をきちんと行えること。患者さんの身体と医学の知に謙虚に、病気に真摯に向かい合い、その上で目の前の患者さんに医師の考えていることが伝わるように丁寧に接すること。「本気」とは医師としての基本の仕事を遺漏なく誠実に行うこと、つまり職業人としての誠実さです。医師の姿勢から、患者さんがその「本気で思う心」を感じられれば、医師の言葉は届きます。本気が届いた時、患者さんの本気からの言葉が投げ返されてきます。医師がその言葉を受け止めた時、やっとコミュニケーションの幕が上がるのです。
    「義憤」も「正義の使者」からの言葉も、それだけでは「本気で思う心」からの言葉ではありません。「正義」は頭からの言葉ですし、「義憤」は感情からの言葉でしかありません。でも、「正義」への志と「義憤」の無いところに「本気で思う心」は生まれません。本気は、知と情が結びついた時に生まれ出てくるものなのです。 (No235に続く)(2016.03)

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