東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.238

良い医者?(2)

日下隼人     幸運にも医者とのつきあいをあまり必要としない人生を生きていても、医療の呪縛は人の首をじわじわと絞めつけています。医療の呪縛は「健康」として人々に迫ってきます。
    もちろん、病気の苦痛はなるべく避けたいし、できるだけ先送りしたい。105歳の「現役」医師のことに限らず、元気な長寿者のことがしばしば報道されるので、「特別な事例」なのに誰でも到達できる目標であるかのような錯覚が生まれます。平均寿命などの数字が、高齢化社会についての報道が、その思いに拍車をかけます。「いのちあっての物種」と言われるように、いのちが続くほうが良いにちがいないし、他人より早く死ぬことはなにか損をした気分になります。タレントや俳優の死亡報道は、若ければ若いほど詳しく放送され、その思いが強化されます。上杉正幸は、その欲求をナルシシズムの表れであると言います(「健康不安の社会学」世界思想社)。
    だから「予防医学」の時代です。様々な健康情報が私たちを取り囲みます。病気を避けるための情報、「健康を増進」し寿命を延ばすための情報、病院に頼らない治療法などについて、「無数」の本が出されていますし、無数のサイトがあります。新聞の1面の下にそのような本の広告がずらっと載りますし、紙面をめくると健康雑誌の広告が載っています。「(たいしたことないと思いがちな)〇〇が怖い」「主治医が見つかる・・・」「セカンドオピニオン・・・」「〇〇を食べると××が防げる」といった番組が、ゴールデンタイムに「娯楽番組」(文字通り「健康エンターテインメント」と称している番組もある)としてたくさん放送され、「名医」が解説してくれます。医師の診断過程までもが娯楽番組として放送されます。同時に、「不摂生」による悲惨な人生、みじめな事例が放送されることもあります。「〇〇が健康に悪いor良い」と先に言ったもの勝ちで、その言葉でしばしば異様な雪崩現象が起きたりします(ある食品が店頭から消えてしまったり、会社が苦境に陥ったり)。紅茶キノコ以来ずっと健康食品が現れては消えます。医療ドラマや救急医療のドキュメントが次々に放送されます。医者は、嬉々としてテレビに出演します(嬉々とする人しか出ないのですから、当たり前ですが)。病院や薬局、公的機関には病気や健康保持についてのさまざまなポスターが貼られています。高齢者になると、健診のお知らせが定期的に届きます。
    こうした情報の中にはいまだに「なんとなく体によさそう」といった気分的なものも少なくありませんし、医学的な根拠に乏しいものもあります。でも、今日では「エビデンス」としての統計的な数字に「裏付けられた」と言われて喧伝されるもののほうがずっと多くなりました。テレビで医者や学者が説明するとき、たいてい「統計によると・・・」と言うように、数字に裏打ちされたたくさんの情報(エビデンス)を基に示されます。それがたった一つの論文であっても、世紀の大発見のように説明されます(STAP細胞の騒動も同じでした)。多くの数字は、その論理を組み立てる人の思惑によって都合よく提示され、幾通りもあるはずの解釈のうち都合よい解釈のみが提示されるのですが、自然科学的な装いがそのことを見えにくくします。数字を保証するものは、医師・医学者であり、学会や科学雑誌の権威です。「大学の先生が言った」「学会で発表された」「外国の雑誌に載った」というように国内外の研究成果の結論が(それが正しいものかどうかという吟味無しに)、次々に報道されます。コーヒーは「〇〇に良い」「△△に悪い」「何杯までが良い」「何杯以上は呑まないと」というような言葉が氾濫します。「医療の神格化と卑俗化との同時進行」が進みます。(中山元)
    健康は、健康診断がそうであるように、数値でしか確認できなくなります。肥満、「メタボ」「死の四重奏」のように、自覚症状とは関係なく検査値・測定値のみで決められてしまうものが出てきました。見た目が良くとも「隠れメタボ」があると言われます。どんなに元気でも、数値が悪ければ異常ですし、どんなに自覚的に不調でも数値に異常が見つからなければ「正常」か「心の病」か「原因不明で対処のしようがない病」ということになります。
    福祉政策も、厚生行政も、統計的数値をその根拠とします(統計的数値に従って策定されるのではなく、政策に都合のよい数値が利用されます)。テレビなどでは、禁煙やC型肝炎の治療についてのCMが流れ、企業の利潤を求める活動が健康教育をするという事態が「異常なこと」とは受け取られなくなっています。自然科学の無謬性神話と政治・経済政策が結合し、相互に相手の神話性を強化しあっていきます。

    「こうしたことに気をつけないと早死にしてしまうよ(損でしょ)」という情報に取り囲まれることで、私たちは「自分は健康ではないのではないか」「何か対策を講じないといけないのではないか」という思いに囚われます。常に病気への不安を抱え、健康のために禁煙・適度な運動など生活上さまざまな配慮をしなければならず、健診を受けなければならず、少しの不調でも少しの不安でも、医師に相談しなければならず、・・・・・と、医療(医師の姿)は46時中私たちの視界から消えません。子どもたちも健診に取り囲まれています(成人のそれとは少し趣が異なると思うのは私が小児科医だからなのであって、本質は同じことなのでしょう)。タバコがやめられなかったり、不規則な生活をしていたり、運動をしていなかったり、健診をうけていないような人は、「うしろめたさ」を感じないわけにはいかなくなります。乳幼児健診を受けていない親や子どもに予防注射を受けさせていない親は、児童虐待が疑われてしまいます。
    生活習慣病という言葉は、そうした病気になるのはさまざまなアドバイスに従った生き方をしてこなかったこと「あなたに責任がある」ということを表しています。労働環境の安全管理が整えられた現代では(まだ整えられていないところもたくさんありますが)健康は純然たる個人の問題となり、「健康を守る」のは個人の責任ということになります。「医学の進歩」によって、身体はますます細部にわたって操作対象になり、遺伝子レベルまで操作されようとしています。自分の遺伝子情報を知ったうえで、それに見合った予防的生活をすることが勧められるようになりつつあります(乳がんを予防するために遺伝子検査を行い、乳房切除する人も出てきました)。「心の病」も、脳の局在部位の活動性が検査され、特定の酵素や神経伝達物質が検索され、その原因や重症度に関わる遺伝子検索が行われています。病因に社会的な問題が大きく関わっていても、個人の問題とされてしまいます。過ストレスによる肥満であっても、対策は「ダイエット」や運動が提示されるばかりです(そこに群がる企業がいっぱい)。同様に「社会的貧困」や「少子化」も個人の問題に落とし込められ、しかもしばしば医学的問題として語られてしまっています。
    「健康に努めない人」と「健康に注意して生きている人」とが同じ健康保険で良いのかと責められます。「健康に努める良い子にしていないと、社会(国)はあなたのことを守りませんよ」という「脅し」がさりげなく、時には露骨にかけられています。「不健康な生活をしている」(恣意的に決めつけることができる)という非難に対して、抵抗するとしたら「自分の勝手だ」という居直りしかできなくなり、その態度が「身勝手だ」「自己中だ」とさらに責められることになります(「非難」と「居直り」ばかりの関係は、医療の場に限らず蔓延してきているような気がしますが)。(2016.04)

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