東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.24

コミュニケーション「講義」1

日下隼人 親子喧嘩では「親の言うことを聴け」「私の話を聴いてよ」と言い合います。「話を聴け」ということは、「自分という存在を認めよ」ということです。話を聴かないということは、相手を受け入れないということです。話を聴いてもらえないと、「受け容れられない」「拒絶された」「自分という存在が否定された」と思います。「こちらの話を聴いてくれたら、相手の言うことを聴いても良い」という含意がここにはあります。とすれば、医療の場でまず「聴く」ことは医療者から始まるはずです、「今日はどうなさいました」という問いから始まるのですから。
 この「聴く」は、耳と心をまっすぐ相手に向けるという意味だということですから、身体や目が患者さんのほうを向いていなければ「聴いてもらっている」とは相手の人は感じるわけがありません。胸襟を開くというように、手を広げて「どうぞ、私に飛び込んできてください」というような姿勢でないと受け容れられているとは感じられません。よく医者で腕組みをして患者さんの話を聴く人がいますが、腕組みというのは「入ってこないでね」という拒絶的な態度ですから、それだけで患者さんははじかれた気がします。
患者さんは、もともと「医者はちゃんと聴いてくれないだろうな」と思っていますから、こっちの態度が悪いと患者さんはすぐ話すことを諦めてしまいます。話を聴いてくれない人に、大切な話をする気になりません。大切な話はあらかじめ用意されているというよりは、話を聴いてもらっているうちに話すべき大切なことに自分で気付くのでしょう。医療者が「聞き出す」のではなく、「なんでも話してよさそう」と感じてもらえた人から溢れ出てくる言葉を、医療者が受け止めるというのがコミュニケーションの始まりです。もちろん、人は、自分の話を聴いてくれる人のアドバイスにしか「乗ってみよう」とも思いません。
 人の話を聴くにもエネルギーが要るし、人の話を聴き終わるまで待つことにもエネルギーが要ります。このエネルギーは患者さんにプレゼントされて、患者さんの元気の源になります。話を聴いてもらうことで、ほっとする。自分の話に価値があるという自己肯定感が得られ、自分の考えがはっきりしてくる。すーっと落ち着く。頑張ってみようかなという元気が出てくる。ミヒャエル・エンデの『モモ』というファンタジーに、そのことが書かれています。モモのところにたくさんの人がいろいろな相談に来て、答を見つけてとても元気になって帰っていくのですが、彼女は別に何も特別なことを答えていなかった。じっと座って、大きな黒い瞳で相手をじっと見つめて、注意深く話を聴いているだけで、周りの人がみんな元気になったのです。医療者は「モモ」を見習わなくてはなりません。
医療者は、患者さんが何か言っていると「答えてあげなくちゃ」、何か言ってきたら「ああ、わかっていないんだから説明してあげなくちゃ」と思ってしまいます。「説明してあげなくちゃ」と思うときには、ともかく「医者の頭の中にある考え」を説明してしまうのですが、このとき、相手の心はほとんど配慮されていません。患者さんの心に触れない説明では、いくら説明を聞いても患者さんは納得できません。話を聴くことは心に触れる第一歩です。


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