東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.240

良い医者?(4)

日下隼人     「いのちだけは平等だ」と徳洲会の徳田虎雄は言いましたが、その「いのちを守る」ことは「健康を守ること」と同義とされ、「健康を守る」ことを大義として人の社会的統制が進行します。そこでは、統制する人−統制される人という対立関係があるというよりも、すべての人が「健康」に統制されてしまいます。専門家支配というより、専門家もシロウトと同じように「健康」によって支配される世界です(だから、平等だということでしょうか)。健康は、誰も異議を唱えることのできない錦の御旗であり、人は自らすすんでその御旗に拝跪します。健康は、イデオロギーだとは感じさせない最も強力なイデオロギーなのです。「健康のために、憲法を変えよう」と言うことも「健康のために、憲法を守ろう」と言うことも可能なような統制ですから、思想統制されていると人は感じないまま思想統制されています(現代社会では、イデオロギーの顔をしたイデオロギーは無力です)。その構造の中で、医者は健康を疑うどころか積極的に自ら「健康」に縛り付けられ、医者としての「役割」を誠実に果たすことでその構造を強化し、人々を「健康」に縛り付けていきます1)
    今日では、望ましい生き方を示すのは宗教ではなく、医学の数字です。「健康」は数字や画像によってあらわされるものであり、それゆえ健康な人の顔はみな同じにならざるをえません。人のアイデンティティは検査結果や画像に(そして、病名に)集約され、データの集積物として管理されます(自ら管理します)。検査結果が示す生き方に従うことが、幸せだとされます。とはいえ、「医学教」の教えに従って生きても「永遠の生」が得られるのではなく、最善でも「長生き」しかありません(「長生き」に貢献しているのは医学とは別のことなのかもしれないのですが)。健康は「神の国」のようになり、「健康のために」努力することが人生の目的となります。いつかは必ずその目標が破綻するのですが、目標が破綻した時に頼るのも「医学教」しかありません。
    検査値に追い立てられているのに、そうは感じないように人々は調教されています。その調教から逃げ出そうとする人には社会から「やさしい」制裁が加えられますが、それ以前に自分でも負い目を感じずにはいられません。その「負い目」をめがけて、「予防は個人の責任」とされ、「健康で長生き」の中身も個人の責任に委ねられます(「貧困」のような「社会の責任」は語られません)。人は、社会的に追い立てられているのに「自己責任」という孤独の中に置かれることになります(「個の尊重」というような美辞がそのことを隠します)2)。「ひとりカラオケ」「ひとり焼肉」「ひとりボウリング」は、決して微笑ましいばかりの事態ではないのです(私は嫌いではありませんが)。関わりを断たれることによって、人は不安になります。人の不安に「つけこむ」のが宗教だとしたら、医学は確かに一つの宗教になっています。
    望ましい人間像・望ましい生き方(生の終え方)は没個性的なものとしてしか提示されないので、そこにあるのは連帯ではなく「無個性」による個の孤立です。患者の自主性・自律・主体性・自己決定は、「個の尊重」でもありますが「孤立」の強化でもあります。患者は自己決定という名の強制に従わされます。自己決定の判断根拠も「健康」であり、その概念は医療者やマスコミ・書物・電子情報などによって洗脳されたものです。医療を問いかける意味で使われ出した「患者は医療の主人公」という言葉にさえも、生命管理を強化するものとしての側面がつきまといます。
    患者であるということ、死にゆくものであるということにすら、「差異」が認められません。「個の尊重」「インフォームド・チョイス」と言われながら、みんなが同じような選択を迫られ、「差異の均一化」が進行します。ファミレスで食事を頼むとき「焼き方は」「スープは」「ライスかバンか」「サラダのドレッシングは」「食後の飲み物は」と矢継ぎ早に複数の選択肢の一つを選ぶよう求められます。その選択は、用意されているいくつかの(2つか3つの)選択肢から選ぶだけのことであり、周りのテーブルを見回すと誰もがたいして違わない選択をしている、選択の連続なのに無個性化という寒々とした光景。
    「(高齢者への)過剰な治療の停止」「無益な医療」「在宅医療の推進」「リビングウィル(という自発的医療停止)」「死の教育」「終活」といった言葉は、こうした管理が人生の最後の場面にまで及んできていることを示しています(「終活」などは企業の営利活動のための言葉にもなっています)。終末期の治療について、このような選択を早めに患者にしておいてもらうことが患者の意思を尊重する倫理的方策であると善意で思い込んでいる人たちがいて、「良いチェックリスト」の作成が試みられています(ファミレスのメニュー作りと同じです)。その提案に乗ってしまうと人生の最後のことまで医療者抜きには考えさせてもらえなくなります。そこで「考えたくない」「わからない」という人は、「自らの希望を主張する存在」へと啓蒙すべき「遅れた」「自立していない」存在とされてしまいます。
    その上で、「最期は自宅で」「家族で支え合う」というような、現実離れした言葉=政策3)に人は追い詰められます4)。その言葉それ自体としては肯定的な側面もあることから否定しにくく、しかも共同幻想が人々を呪縛していきます。(2016.05)

1) 美馬達哉は、「生を治める術としての近代医療」(現代書館2015)で、生権力の新しいかたちとして、以下のようなことを挙げています。
@生命と生物学的知識や技術が経済学的な問題になっている
Aさまざまな生命現象を化学物質のレベルで理解しコントロールすることが可能になっている
B最適化 個人の正常・健康をさらに優れた状態にするために医療技術が用いられている
C生物医学で得られた自分たちの身体や遺伝子や脳についての知識をもとにして、自分たちを主体として構成する
D専門知識をもつのが医療者だけでなくゲノミクス企業となっている
E専門的知識が、経済的利害やマーケティング戦略の影響を受けやすい。医療者も遺伝カウンセラーも、単なるユーザーとなっている。

2) 万人が孤立した精神状況に置かれる「よるべなさ」から、右傾化にみられるような非合理的宗教的雰囲気に社会全体が呑みこまれる危険が生まれるのではないでしょうか。このことの原因に医療者がどこまで責任を感じるべきかは一概に言えないと思いますが、この事態に加担しているという自覚くらいは持っていたい。
参考:中島岳志・島薗進「愛国と信仰の構造」集英社2016
   林道郎「死者とともに生きる」現代書館2015

3) 「権力が生命を担保にして、理性的に判断するための前提として知に働くなら、理性は自由と隷属の選択には無関係です。みずからを自由と考えている医者や科学者たちが、厚生権力の尖兵として健康知をひとびとに浸透させていく時、それはすべてのひとを巻き込むような隷属を推進することになります。」(船木亨 前掲「現代哲学への挑戦」) この言葉は、医師が、自らの仕事の倫理的意味を問うことなしに忠実な官吏のように医学を実践するとすれば、ある種の「殺人」に加担すると言っていると私には読めました。H.アーレントは「イェルサレムのアイヒマン」で、アイヒマンが普通の(凡庸な)人で、与えられた自分の業務を忠実に遂行しただけの人であったことを示しています。
 今日の「できる」病院管理者は、厚生行政の政策を先取りすることができる人、あるいはそこまでできなくとも政策に速やかに効率的に対応する病院管理ができる人のことになってしまいました。厚生政策と真っ向から対立したり、政策が顧慮していない(あるいは切り捨てている)医療にとりくむような病院管理者がかつては存在しましたが、現在ではそのように行動することは病院の経営破綻と背中合わせになり、「火中の栗」を拾うような人はいなくなりました。現在の病院管理者は、「患者に優しい病院」「患者中心の病院」と言うことのできる「刑務所長」かつ「工場長」になるしかないのです。

4) 人の終末期をたくさん見ていない人・まだリアリティを感じていない人にアンケートを取れば、「自宅で死にたい」という意見が多くなるのは当然です。「自宅で死にたい」という選択肢を選ぶことには「自宅で死ねるような社会であってほしい」という願いが貼り付いているはずなのに、そちらへの対応がなされないまま「強制退院」させられているのが現状であり、アンケート結果は都合よく利用されているのです。自宅療養がうまくできるのは、経済的(家が広い・人を雇える)・人的(身内が医療者である・人手が多い)に恵まれたごく少数の人たちだけです。有志の開業医の個人的努力による優れた実践があることは確かですが、そのような実践自体がこの「病院から地域・家庭へ」のごり押しを進める根拠とされてしまいます。このような事態に対してジョン・ロールズの言う「無知のヴェール」と「格差原理」は(いろいろ批判されているとしても)一つの有効な反論となりうるかもしれないと思います。

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