「大休みのなかから うまれてきて
小休みに 中休みをまぜてやりつづけ
さいごにまた 大休みにかえっていく」(まど・みちお)
朝日新聞の朝刊の「折々のことば」で、鷲田清一さんが書いておられました。
こんな言葉もあります。
「今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。」
「今日は死ぬのにもってこいの日」タオス・プエブロの古老の言葉
まどみちおさんは104歳まで生きました。その人生が満足すべき大往生であったかどうかは他人にはわからないことですが、「良く生きた、もう死んでも良い」と思える人生を生きること自体僥倖なのです。それは、たまたまそのようなめぐり合わせであっただけで、その人の善行のせいでもありませんし、「健康」のための努力の賜物でもありません。
このような言葉にも傷つき、悔しい思いをするであろう人を見続けなければならないのが医療者です。医療者の仕事は、「もってこいの日だ」とは到底思えない日に「その日」を迎えてしまった多くの人と出会う仕事です。そのことで医療者は傷つくのですが、その傷を癒すのはそうした人のことを忘れ去ることではありません。出会った人との「つらい」思い出を見失わないで生きる日々なのです。
患者さんは自分の運命・医療者との出会いに「感謝」する言葉を言うことがありますが、それは患者さん自身を慰撫する言葉であって、医療者が満足してその人のことを忘れてしまうための言葉ではありません。
おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
自分の足首を自分の手で
しっかりつかまえて
はなさないのだ
おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
涙をこぼすのは
いつもおれだ
おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
泣きもしないのに
おれが泣いても
どうにもなりはせぬ (石原吉郎「泣きたいやつ」抜粋『斧の思想』所収) (2016.06)