東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.26

コミュニケーション「講義」3

日下隼人 医師の説明を聞いた患者さんは「わかりました」と言ってくれますが、きっと医師の説明を知識としてわかってはいないはずです。2で書いたように、医療者の言葉は患者さんには通じるはずがないのです。「通じるはずがない」と覚悟していれば、「わかりました」といった患者さんが「ぜんぜん分かっていない行動」をしても腹が立たないのですが、多くの医者は「わかりました」という言葉を文字とおりに受け止めて、「どうしてこちらの説明とおりのことをしないのだ。説明したときに分かったと言ったじゃないか」と思ってしまいます。患者さんは「よくわからないけど、先生に任せる」と言っているのです。「目の前の医者に自分の人生を賭けてみよう」と思って「わかりました」と言っているのです。つまり患者さんの「わかりました」はずっと深いところから語られています。この医療者と患者のずれが溝を深くします。
 とはいえ、説明を少しずつでもわかってもらわなければなりません。そうでないと、一緒に医療を行うことができないからです。この「わかる」は「のみこめた」「腑に落ちた」というようなわかり方です。「のみ込めた」というようなわかり方をしてもらうためには、たとえを使うような説明、目に見えるような説明でなければなりません。「CRPは炎症の反応」ではわからないので「医者の言葉では炎症の反応ですが、たとえてみると、体の中で火事が起きていて、CRPはその火事の煙の大きさを見ているようなものです」というような説明を私はよくしています。
 医師の説明が少しわかってくると、患者さんの心には疑問が浮かんできます。そして、医療者の雰囲気がよければ、質問をしてくれます。「ものがわかる」というのはこういうプロセスを経るのが普通です。私たちも、何かを学ぶときには、疑問点を尋ね、その答えを聞いて、理解を深めていきます。医学のような難しいことが、このような過程なしに理解されるはずがありません。だから、質問が出なかったら、「まずい」と感じなければなりません。取り付く島もないほど分かっていないか、こちらの雰囲気が悪くて聞けないかのいずれかです(両方のことも少なくありません)。
質問に答えさえすれば良いということにはなりません。患者さんがいろいろ質問してきたときに、難しい言葉をいっぱい交えて一生懸命医学的な説明をしても、患者さんは「いろんな質問をしたけど、難しくてわからない言葉ばかりで答えられてしまった。わからない言葉でごまかされているんじゃないか」「あんなに心配して質問しているのに、医者の言葉で説明するばかりで、全然ちゃんと聴いてもらっていなかった。私のことが無視された。全然取り合ってくれなかった」と感じてしまいます。ここでも、十二分に説明して「あげた」と思う医者と、「ぜんぜん取り合ってもらえなかった」と感じる患者さんという、相反する思いが生じます。そして、しばしば医療者はそのことに全然気がつきません。
 医療は、患者さんと医療者との共同作業です。そう考えれば、「医師の説明」も違って見えてきます。医者は「説明をしてあげる」と考えがちですが、患者さんと話し合うのだと考えるべきだと思います。ここで書いたことは、話し合いと考えれば当たり前のことなのですが。


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