東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.43

病気の人の気持ち

日下隼人   病気には不安がつきまといます。入院であれ外来であれ、病院とかかわりのある間は、不安がなくなりません。一つ病気をするだけで、自分が有限な存在であることをあらためて身にしみて感じ、これからの人生への不安が増します。不安は、病気の人を「まとも」な精神状態から引き離します。だから、病気の人は「わがまま」で「怒りっぽく」て、「自己中心的」で「依存的」になります。
   病気になったとたん、心が萎えます。熱や痛みのつらさが、未来への不安(未来が見えないことへの不安)が、心を萎えさせます。病名だけで心が萎えることも少なくありません。心が萎えているのですから「自己決定」とか「自立」とかが求められても、それは病気の人にとって「ないものねだり」です。人の話なんか聞こえなくなりますし、萎えた心はその回復のためにしばしば理不尽な言葉を生み出します。
   自分が何を言うべきかわからないばかりか、何を言いたいのかもわかりません。あらかじめ言うことを考えていても、医者の話を聞くうちに、頭が噴火して、話そうと思っていたことを忘れます。医者の話から新たな考えが生まれますが、それを即座にうまく言い表すことは難しいので「言い残し」が無くなることはありません。それに、たいてい医者は患者の話を遮りますから(「わかりました」と言われたら、もう後の句が継げない)聞いてもらえなかったという思いが残ります。いろいろ医者に尋ねたいことがあっても、怖い答えが返ってくるかも知れないと思うと、聞けません。医者に悪く思われたくないという思いから、言葉を控えてしまいます。
   心が萎えているので、医者の言葉が聞こえません。そもそも医者の言葉が難し過ぎますし、多すぎます。医者の言葉は、些細なものでもずしんと響きます。医者が首をかしげるだけで、不安がふつふつと湧き起こります。心が萎えているので、医者の言葉は自分に都合よいようにしか聞こえません。悪い言葉しか耳に入らない人もいれば、良い言葉しか耳に入らない人もいます。
   医者のような知識や経験がないのですから、たとえ言葉の意味はわかっても、その説明が正しいのかどうかはわかりません。でも、医者の話はわからないけれど、それでも「わかりました」と言うしかありません。「よろしくお願いします」という意味で「わかりました」と言っているだけなのですが、その言葉を医療者は真に受けてしまいます。

   病気になることは、悔しいことです。人生の挫折であり、人生の路線転換を迫られ、これからの人生が順風満帆とは行かなくなることが、悔しい。自分の体のことが自分にはわからないのに、目の前の白衣の人にはわかっているらしいことが悔しい。白衣の人たちは自分の生殺与奪権を持っているがゆえに、その人たちみんなに気を使い、頭を下げなければならないことが悔しい。白衣を着た人間の、上から目線(何だあの態度は)・上から言葉(敬語も使わない)が悔しい。そもそも医者なんていう、「胡散臭い人種」を頼りにしなければならないことが悔しい。人前で裸にならされ、みんなに見つめられ、縁もゆかりも無い同室の人に気を使わなければならないことが悔しい。
   もうプライドはずたずたです。
   自分にとっては、自分こそが世界一のMVPなのに、そんなふうには扱ってもらえない(最高のケアを最優先して提供してもらえない)ことが悔しい(そんなことは不可能だとわかってはいますよ)。身内も自分のことがわかってくれていないことが、悔しい(もともと他人なのだから仕方ないのだけれど、他人でしかないということを思い知らされる。それに、しばしば「わかってほしい」ことの中味が理不尽だったり支離滅裂だったりするために、理解してもらえない)。こんなに我慢しているのに、「良い患者」と思われようと努力しているのに、そのことをわかってもらえないことが悔しい(「わがまま」と言われてしまったり)。
   何か質問すると「教えてあげる」という上から目線と、医学的な言葉ばかりが返ってくるので、「もうちょっとこちらの心配に気づいてよ」といろいろ質問を続けていると「理解力の悪い患者」「うるさい患者」などと言われることが悔しい。自分の言葉が聞き流されても悔しいし、言葉がその「言葉」通りに受け取られてしまうことも悔しい。だからといって、黙っていたら、気にもかけてもらえない。 見るものすべてに腹が立ちます。
   明るい病院を見たら「自分がこんなに苦しんでいるのに、この明るさはなんだ」と腹が立つし、殺風景な病院を見たら「監獄みたいで苦しみが増す」と腹が立つ。職員の笑顔に「なんで笑っていられるんだ」と腹が立ち、真剣な顔に「そんなに怖い顔をするな」と腹が立つ。どう転んでも、箸が転がっても腹が立つ。元気に歩いている人を見たら腹が立つ。家族団らん風景を見ても腹が立つ。みんなが重い病気になればよいのにと思う。
   病気になることは不安であり、死の接近を感じたら自分に収拾がつかない(身内が病気の場合でも同じです)。もうまわりの誰かにあたらずにはいられません。家族、看護師は恰好の標的です、時には医師も。八つ当たりですから、たいていの言葉は理不尽です。「無理なことを言う」って、そんなことは自分でもわかっています。 コミュニケーションは途絶えてしまいそうです。

   ここで書いたことは、私自身の病気体験と、医師として出会った患者さんの体験から、私が勝手にまとめたものでしかありません。ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言いました。他人の気持ちは「語りえぬもの」の最たるものです。でも、患者さんの言葉にすぐ反発してしまう医療者を見たり、私たちの相手が普通の精神状態にいると勘違いしているかのようなコミュニケーション論を聞くと、ついつい言いたくなってしまいます。理不尽なことを言わざるを得ない人に、論理的に説明するだけでは解決になりません。「理不尽なことを言っているからクレーマー」ではありません。
   医療コミュニケーションの教育とは、コミュニケーションが途絶えそうなところに腰を据えて、病気になった人の心はどのようなものかということをみんなで手探りしつづけていくことに尽きるのではないかと思います。

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