No.44
白衣が隔てる世界
私の手もとに、白血病で亡くなったある少女の日常を綴った一冊の本があります。この本を、私はその少女のお母さんから送っていただきました。その中の一つの詩。
さとうゆみという子がおりました。
かなうはずのない夢も、将来性のある夢もいっぺんに夢みて、女のようで男のような子がおりました。
しじゅう、おちこんだり、いかったりくり返しながら、おりました。
人騒がせなことをしたり、理くつをこねたり、ちょっとヘンなさみしい子がおりました。
いろんな、世界中のいろんなことにあこがれて、こいこがれて、死んでしまいました。
さとうゆみという子がおりました。
忘れないでよ、忘れないでよ、ねぇ、ねぇ、みんな。
彼女は自分が死ぬ病気であるとはっきりとは知っていなかったと思います。でも、人間が最後にたった一つ求めるのは自分のことを「忘れないで」ということであり、忘れないでいてくれる人の存在ではないでしょうか。
彼女はまたこうも書いています。
わたしのごく身近に、今ひとり、すてきな人がいる。
その人のおかげで、ひとすじの光がさしこんでくる。
ただ、その人がいるというだけで、心の支えになる。
それだけで前を向ける。
おもしろくって、やさしくって、肩をはっていて。
ありがとう。がんばって生きていくんだ。
負けない。
きっと、何する時も、思い出して。
わたしのできること力いっぱいやるよ。
大切に、一生懸命、生きていくんだ。
(佐藤由美『シューベルトさまこんにちは』新潮社)
この詩に登場する“人”が医療者なのかはよくわかりません。でも、こんなふうに思ってもらえたら、そこでの最後の日までの付き合いはどんなものもターミナル・ケアだと言えるでしょう。ターミナル・ケアとは形や方法のことではありませんし、“うまく死ねた”人のケアだけのことでもありません。そこにあるのは、なにをするかではなく、どんな人間として接するかだけです。「あなたのことを忘れない」人間の一人であることを信じてもらえるような付き合い、そばにいるだけで「ひとすじの光がさしこんでくる」と感じてもらえるような付き合い、ケアということはそれだけで十分なのです。コミュニケーションとは、言葉だけのことではありません。出会い、そばにいること、そして「忘れない」ことがコミュニケーションなのです。そこに「医の倫理」があります。
けれども、彼女はまたこのような詩も書いています。
ここ
現世へのこる人たち
幸せであるように 祈っています
残される者の悲しみは
新しいものの 誕生や
時の流れが
じき解決してくれるでしょう
胸はときどき
痛むかもしれないけれど
悲しみは思い出になって
人は生きていくのだから
わたしのことは心配しないで
遠くへいくのは
たやすいことではないけれど
心配しないで
現世へのこる人たちが
少しでも幸せであるように
祈っています
(「ここへのこる人たちへ」 佐藤由美『ゆみは風になった』丸善)
白衣が、病者の世界と私たちの世界とをへだてます。病者は、その間の深淵に立ちすくみ、そして一方的に祈りを送ることで私たちとかろうじてつながろうとするしかないのです。「忘れないで」と願いながら「心配しないで」と言わざるをえない病者と、白衣の私たち。私たちのコミュニケーション=ケアはそのような「場」にひそやかに生まれ、ひっそりと息づくしかないのかもしれません。そうしたことを伝えるのがコミュニケーション教育だと思います。