東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.46

病いの意味

日下隼人  医者から見れば、病気とは人間の身体の中のある部分が異常となった状態であり、身体の中に異物が出現したような状態です。そこで、治療とは、その変化を元に戻すか変化した部位を除去することであるとされます。でも、病気の人が自覚するのは身体の不調であり、めざすのはその消失です。その消失を望むのは、その人にとっての良い人生を長く生きたいと思うからです。
 心身の不調という事態の出現により、これまでの人生の流れはせき止められ、澱みます。未来へ向けて開けていると思っていた道の見通しが突然きかなくなり、人生の流れの途絶=死さえ予感されます。孤立感と絶望が心を覆い、これまでの人生の意味が台なしになってしまうとしか感じられなくなります。世界は突然狭まります。自分の身体が災厄の源と感じられ、よそよそしいものとなり、無力感に包まれ、受け身にならざるをえません。
 それまで自分が抱いていた、「自分はこんな人間だから、こんなふうに生きているのだ」という自画像、「自分はこんな人間で、これだけの能力があるはずだから、こんなふうに生きたい。こんなことをしてみたい」という人生設計は、音を立てて崩れます。病気は、すべての計画や希望の前に壁として立ちはだかります。心身の不調は、人生の流れを阻むきっかけであり、当面急いで解決されなければならない大問題ですが、そこに病いの本質があるわけではありません。「病者には社会的な問題や心の問題もある」のではなく、病者には自分の人生そのものが問題なのです。
 病気になることで、人はその人生の軌道修正をせまられ、自分自身の人生設計を変えなければならなくなります。つまり、人はアイデンティティを見失います。過去の経験や他人の経験は、この危機には無力です。不安が、病者の心を覆います。病むということは、そのつど人生のはじめての危機的状況を生きることです。病者の不安の根源には、動物としての生命の危機を含む、アイデンティティの危機が横たわっています。
 アイデンティティとは、「自分はこのような人間であるという思い。だからこのように生きているという思い。これからの人生をこのように生きていきたいという希望と将来計画。それらが合わさった全体としての〈人生設計〉」です。人間は、人生のどの瞬間にも、アイデンティティなしには生きられません。つまり、人間はいつも「自分は、かくかくしかじかのものである。自分は、こう考えて、こう生きようとしている」と自分を納得させられる説明なしには生きられません。この説明が、自分についての自作の物語なのです。
 アイデンティティは確固たる実体としては存在しない不安定なものなので、人はどんな時もつねに新しい物語を作り続けなければなりません。しかし、その作業が自分なりのペースでそれなりに落ち着いてできる状況と、ペースがガタガタに乱れてその作業に手がつかなくなる状況とがあり、病むという事態はその後者です。書き続けていた自作の物語の骨格が崩れ、マイペースで物語を書けなくなった状態が「病い」なのです。
 病者は、「病む」という人生の事件の渦中に入ってしまっているのですから、「病い」の対極にあるのは「健康」ではなく、事件が終了した結果にたどりつく、あるいは事件が続いていてもそれが常態となり、自分なりのペースで物語を書くことができる状態=「日常性」なのです。
 人は、一人でこの混乱から抜け出るという作業を行うしかありません。「助けてあげる」ことが私たちにできると思うのは錯覚です。でも、私は、その病者の人生の登場人物として、出会ってしまったのです。出会った時から、私たちは、その人の物語を一緒に生きるのです。その人も「私の物語を一緒に生きる」という互恵的関係が始まります。そんな私にできるのは、病者を見守り続け、伴走し、疲れてへこたれそうになった時にそっと手を添えることしかありません。そのような人間が居ることを実感できれば、病者の作業は、いくらかは容易になるでしょう。それが「支える」ということであり、その支える思いを伝えるのがコミュニケーションです。

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