No.5
あなたのからだ、さわらせてください? 模擬患者と身体診察@
「これからのSPは身体診察も」という人がいます。現在のように、医療面接だけのSP活動はレベルの低い活動だという暗黙の重いが、そこには流れています。でも、そうでしょうか。 佐伯さんがこの言葉に異を唱えられました。その最も重要なポイントは「モノではなく人として向き合ってほしいからSPの活動に参加した人に、人ではなくモノとして利用させてほしいと言っているのと同じである」という指摘です。「医療を患者中心のものにしたい」という思いから、私(たち)はSP活動にもカルテ開示にも取り組んできたのだと思っています。そのような思いは、私たちの活動のあらゆる場面で常に実践されていなければ、どこか一つでも医療者中心の活動が行われれば、全ての活動が一挙に意味を失います。残念ながら、all or nothingで、一つでも医療者中心に語られれば、他のこともすべて「本音のところはそうなんだ」と思われてしまいます。 「医学教育に必要だから、誰かやってよ。いやな人はしなくていいから」と求めるのは、患者中心ではありません。いみじくもしばしば例に挙げられるように「こんな診察じゃだめだから、私の体を使え」と一般市民が言いだすのならそれはそれで意味があるでしょうが、医療者が「からだ、貸してもらえませんか」と口火を切るのとは本質的に異なります。「僕たち=勉強するひと、一般の人=裸になる材料」という関係ですね。「服を着た赤の他人の前で肌を見せる人」と「その人を学習材料とする人」との関係は、学生がいくらお願いするにしても心から感謝するにしても、対等な関係ではありえないのです。 ここで学生たちが学ぶのは、学生が医学を学ぶために市民は裸にでもなる存在であり、自分たちが操作する対象、道具として使ってよい対象なのだという、非対称的な患者-医師関係のほうです。(ここから人体実験までの道のりは、そう遠くありません。)そればかりか、少なからぬ学生は「よくやるよ」「どんな育ちのやつだ」などと市民を蔑視することも身につけます。 学生は、患者=市民を自分の操作対象として見下ろす姿勢を、無意識のうちに教化されます。(医療の世界でしばしば使われる「患者に・・・・させる」という言葉も同じです。)これはポリクリで、患者を階段教室から見下ろしていた私たちの姿と変わりありません(あのときも私は「患者さんはつらいだろうな」と思って、見ていました)。教授回診に従っているうちに、医師は、裸でベッドに横たわる患者を多数の白衣の人が見下ろす(患者を見下ろし、モノとして見る)ことを当然のことと感じるようになってしまいます。教授回診は、医療者-患者の非対称的関係の上にしか存在し得ないものであり、だからこそ非対称的関係を無意識のうちに教化し、医師を無感覚にさせてしまうものなのです。それとなんら違うものではありません。(ちなみに私はこのような部長回診はしていません。) 「死の教育」が、教育者の意図とは別に、死すら「教育したり」「語ったり」できるものだということを伝え、死をかえって軽薄なものにしてしまうのも同じです。「隠されたカリキュラム」ですね。メタ・メッセージともいえます。こんなことは、コミュニケーションを指導している人はみんなご存知のはずなのに。