東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.53

外国に範をとる? 

日下隼人   私は自分のことを国粋主義者ではないと思っているのですが、「欧米はこんなに進んでいるから、日本も追いつかなければ」という言い方がどうも好きにはなれません(最近は、「欧米だけではまずい」と思うためかアジアの国を範とする言葉も増えてきました)。それは医療−医学教育の世界でも同じです。次々と新しい横文字の言葉が入り込んできますし、新しい形が導入されます。リフレクション、アサーション、コーチング、ナラティブ、コンフリクト、SEA、・・・・。そうそう「欧米では進んでいて、模擬患者は身体診察に協力している」というような言い方も同じようなものだと私は感じています。
   内田樹「日本辺境論」(新潮新書)には、こんなことが書かれていました。
「日本人には・・・ある種の文化的劣等感が常につきまとっている。・・・ほんとうの文化はどこかほかのところで作られるものであって、自分のところのは、なんとなく劣っているという意識である。・・・・私たちの外部、遠方のどこかに卓越した霊的センターがある。そこから『光』が同心円的に広がり、この夷蛮の地まで波及してきている。けれども、その光はまだ十分には私たちを照らしてくれてはいない。」「ふらふらきょろきょろして、最新流行の世界水準になだれをうって飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古人の智恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たちは日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。」
リフレクションという言葉は、世阿弥の「離見の見」とそれほどは違わないような気がします。アサーションは、もともと日本の人間関係の基本そのものなのに、なんでいまさら外国語で、と感じてしまいました。すぐれた指導者は誰もがとっくにコーチングをしています。それに、コーチングばかり言っていると「型から入る」教育の長所は忘れられてしまうかもしれません。
    言葉があいまいな意味しか担わない、あるいは言葉が常に多義的に用いられ、意味が文脈や人間関係に依存するこの国では、ナラティブ=言葉は言葉を発した人の気持ちとはずいぶん隔たっているのかもしれません。自分が話した言葉をそのまま受け止められてしまってもかえって困ってしまう人のほうが多いのでないかとも思います。ナラティブという言葉には社会構成主義とか帰属理論といった難しい言葉がくっついてきますが、人間は「ジコチュウ」で、自分が見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かないし、自分に都合よいようにしか考えないということと、どれくらい違うのか私にはよくわかりません。「そんなん、あたりまえやん」と思いますし、ふつうに暮らしている人は誰もが承知しながら、人とつきあっているのではないでしょうか。「患者さん、なんやしらんけど、こんなこと言うてはります」とか「そんなふうに納得してはんのやね、ほな、それでええやん」というやりとりのほうがずっとしっくりきます。「『へえ、そうですか』と聞いてたらええやん(それはほんまかもしれへんし、ほんまやないかもしれへんけど)」と思ってしまいます。
   最近「PBL(Problem Based Learning)からTBL(Team Based Learning)へ」という言葉を見ましたが、外国ではそのように変わりつつあるということでした。私たち自身が考え、私たちの国の言葉で進化したのなら良いのですが、「外国ではこのように変わってきている、だから私たちも追いつかねば」という雰囲気で語られるのは、どうも・・・。形を真似てもその形を生み出した心がついてくるとは限りませんし、その心を見極めての変化なのでしょうか。
   もっとも、「模擬患者」というのも外国から導入したものですし、私たちがいろいろ悩みながら、私たちにしっくりくる模擬患者活動を模索していることも、「和魂洋才」などと言って外国のものを形だけ取り入れその真髄は自分たちに都合よいように変えてしまう(換骨奪胎)この国の得意技をしているだけかもしれないのですが。それでも、「外国」を根拠にするのではなく、この国の人の気持ち(深層心理を含めて)に添った模擬患者活動の展開を考え続けたいと思います。そのことが、模擬患者中心の教育から患者中心の医療への道を開けていくことになるのではないかと考えています。

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