東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.8

模擬患者と身体診察C

日下隼人 「本人が良いというのだから」「おとななんだから自分で決めれば」というのは、自立した個人という幻想を現実のようにすり替えることで患者にすべての責任を負わせてしまう悪しきインフォームド・コンセントと同じです。このような場合、医師はたいてい患者という弱い立場にあり不十分な知識しかない人を、自分の都合良いように(あるいは自分が良いと思う方向に)誘導しているものです。なにか似ていませんか。「身体診察を嫌がっているSPに強要してはいけない」ということではなくて、「医学教育をしているからといって、身体診察を嫌がっていないSPに『やってください』と言って、本当に良いのですか」「『脱ぎます』と言うSPに、『そんなことはしないほうが教育的に良いのです』と言わなくて良いのですか」と私は思います。 私の感覚が変なのかもしれませんし、時代に合わないのかもしれません。でも身体というものへの普通の人の感覚は、このあたりにあるのではないかと思います。日本に暮らす人の心性への目配り抜きのコミュニケーション教育はありませんし、普通の市民感覚を大切にするからこその、市民参加型教育です。 自分の身内にさせたくないことを、「あ、ちょうど手ごろな人間がいた。本人がしたいと言っているのだから」と言って乗っかることの中に含まれる欺瞞を学生はすぐ見抜きます。「本人がしたい」と言うように誰かが誘導していますし。その学生はその一事を通して医学教育全体が、「患者中心の医療」と言う言葉が欺瞞的だと感じてしまうでしょう。同時に、所詮患者・市民は医療者の下の人間だという感覚がいつの間にか染み付いてしまうでしょう 「患者にはいろいろな人がいて一人一人が違うのだから、その違いを大切にする」ということと「SPにはいろいろな人がいるのだから、やりたい人はやればいい」ということとは、明らかに論理がすり替わっています。これは、「学生にはいろいろな人がいるのだからその違いを大切にするのと同じように、教育者にはいろいろな人がいるのだからその違いをそのまま大切にしよう」と言っているのと同じです。それなら医学教育のこれまでの努力は意味がないどころか、教育者はこうあるべきだという思い込みに基づいて犯罪的なことをしてきたことになります。医学教育者は一定の基準になければならないと「非教育的姿勢を持つ人の個性」を矯正(変化への動機づけ、でしょうか)しようとしてきたのですから。 「学生にはいろいろな人がいて一人一人が違うのだから、その違いを大切にしながら育てていくために」こそ教員には一定の質が求められてきたのではありませんか。そしてSPは「教育資源」と言われるように教育者の側なのです。「患者と医療者の良い関係を求めて市民の目で私たちを問い直そう」という教育のために求められる一定の質があるはずです。学生がそのことを少しでも感じ取ってもらえるように、私たちはそれなりの質を保障すべきです。(これは統一というようなこととは趣を異にする、思想的なレベルのことです。)その一定の質が、「服を脱ぐ」SPという存在により高められると考えるか、混沌したものになり結果的に教育の質が低下してしまうと考えるか、というところで議論が分かれるのだと思います。

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