No.80
それを言っちゃおしまいよ
見学に来た学生から聞いた話です。その大学で6年生に行うAdvanced OSCEでは模擬患者さんがとても厳しいことを言うので、学生たちが試験の日が近づくと戦々恐々としているそうです。「あなたみたいな人には医者になってほしくない」というようなことを言われて泣き出す学生が何人かいるとのことでした。このような言い方をする「権利」が、人生を先に生きてきた私たちにあるでしょうか。私たちにできることは、若い人を支援することだけです。この言葉は教育の「厳しさ」とも無縁です。「あなた」の未来を信じる(信じることに賭けてみる)人の助言しか、相手には届かないのではないでしょうか。
このような言葉を投げかけられた学生は、このような言葉を他人に投げかける医者になるかもしれません。教育とはそういうものです。少なくとも、このように言われた人が、模擬患者や医療面接のことをたいして重要なものではないと考えることだけは確かです(心の防衛反応が働きますから)。SPの言葉が、SPの価値を低めてしまうのです。そして、そのマイナスは、医療面接の意義を軽視した学生が実際に医師になった時に、患者さんに跳ね返っていきます。文字通り「こんな医者にはなってほしくなかった」医師となることで。そんな時でも、他責的な人は「やっぱり言ったとおりだったでしょう」とは言っても、自分の言葉が原因だったとは気づかないものです。
最近Outcome based Educationという言葉を耳にする機会が増えました。でも、このOutcomeとはどんなことなのでしょう。教育の成果には短期間で数字や形で出るものもあるでしょうが、長い時間がかかり、はっきりとは見えないものもあるはずです。長く生きてみると、「あの時、先生は黙って(我慢して)自分のことを見守っていてくれたのだな」とか「あの時、先生はあんなふうに考えていたのかもしれないな」とか「あの時の言葉は、こういう意味だったのか」と気づくことがあります。私が今若い人たちに話していることは、ずっと後になって彼らに思い出してもらえたり、こちらの意図とは全く違うように理解されたり、後姿だけが学ばれたり、そしてしばしばまったく忘れ去られるようなものだと思います。いつの日にどこかで何かが生まれれば(思い出してもらえれば、それが何かのきっかけになれば)と祈るような思いで、自分の想いを、自分には見えない若い人たちの未来に投げていくことが教育ではないでしょうか。教育とは祈りであり信頼であり、祈りや信頼は目に見える短時間のOutcomeで評価することはできないと思います。
祈りの心は怒りや侮蔑では伝わりません(祈りの心は、そのような形を取ることができません)。ある大学の先生が、医学部長が卒業式で言った「絶対に怒ってはいけない、このことさえ守れば良い医者になれる」という訓示を忘れずに生きてきたと言っておられました。これは、単なるHOW TOとしてもきわめて有効だとは思いますが、「いつ、いかなる時も」心から守り続けるためには謙虚さと誠実さ、そして、自らが強い力を持ってしまっていることへの「畏れ」が不可欠です。この「畏れ」が、誰かに罵倒されることで身につくこともあり得ないと思います。