東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.82

インフォームド・コンセントというフィクション

日下隼人     研修医の採用面接をしていると「インフォームド・コンセントは当然のことですが」とか「インフォームド・コンセントが日本では定着していますが」というようなことを言う学生がいます。面接の場面というバイアスがかかっているとしても、ほんとうに大学でこのように教えているのでしょうか。インフォームド・コンセントが定着しているとはとても思えない現実があります。シロウトには理解不可能な医者の(一方的な)説明によって、患者が「同意させられている」という姿をインフォームド・コンセントと思っているのではないでしょうね。
    いまから15年ほど前に、インフォームド・コンセントについて特集された雑誌の中に「主体と代理判断のフィクション」(熊倉伸宏)という文章を見たとき、私はずいぶんすっきりした気がしました。この論文で問題にされているのは主に「代理判断」なのですが、私にはインフォームド・コンセント全体がフィクションであると思えました。インフォームド・コンセントは「自分の病気についての十分な理解」と「自己決定」とが前提になっているようですが、そんなことが実際にありうるでしょうか。
    「自分の病気について十分に理解する」ことは不可能です。医者の説明は、医学の膨大な知の体系についての基礎知識がなければ十分にはわかりません。外国語のような難しい医療者の言葉が機関銃のように患者を襲い、そのことが「理解」を妨げます。自分が病気の当事者である時、そのために医者の言葉が耳に入りません・・・本当は「聞きたくない」のです。説明文書などもとても読めないことの方がずっと多いのです。自らについての客観的な事実をそのまま理解したくもありません。医者から見れば枝葉末節なことがらに、頭がいっぱいになることが少なくないのもそのためです。自らの病いを納得すること自体が不快です。そもそも、目の前の医者が話していることが正しいということを保証するのは、目の前の医者でしかありません。
    「自己決定」はできるでしょうか。病いは人を依存的にします。誰かに頼りたい、すがりたい。誰かに支えてもらうところからしか前へ進めないのですから、支えてくれそうな人と良い関係を取り結べるように自分の人生を選び取ります。病むとき、人は周りの人のことを気にかけ続けます。「死はいかにも自己的に見える。だが、死の淵に立っているものはもはや他者のことしか考えない。日常性が他者のまなざしの交錯のなかに位置づけられている日本人にとっては、とくにそうだ。」(安永寿延「日常性の弁証法」)人は、周りの人への配慮から、自分の行動を決めていきます。周りの人とは、家族や親しい友人であり、医療者でもあります。
    人と人とが気を配りあい、言葉をなるべく控え、甘えあうことで支えあっていく関係の国、つまり自立した個人というものを付き合いの前提としていない国、そして言葉があいまいで字義通りの意味を表わさない気遣いの国。この国は、いまでもそうですし、この先も変わらないでしょう。その国では、医者と納得できるまで患者さんが話し合うということも難しそうです。医者の説明を聞いて「わかりました」と言う患者が「わかった」ことは、「今この医者に任せるしかない」という事態そのものであり、「話は分からないけれど、良い治療をしてね」と言うかわりに「わかりました」と言っているのです。それなのに、「治療を決めるのは患者だ」と相手に下駄を預けた気になったり、患者の「おまかせします」という言葉に「待ってました」とばかりに乗ってしまうようなことがあれば、インフォームド・コンセントは、ただの「同意という名の強制」になり、医療者だけが満足してしまうことになりかねません。「言うだけのことは全部きちんと言った。相手は『わかった』と言った。『お願いします』と言った」というような字面だけのやりとりで言質をとるようなものになってしまうのならば、患者はいっそうつらい立場におかれることになります。医療者も患者も「自立」してはいないのに、自分は自立していると錯覚した医療者は患者から見れば「冷たい医療者」に、自立していると錯覚した患者は医療者から見れば「生意気な患者」になるだけです(お互いに自立していないのですから、相手のことをこのように感じてしまいます)。
    前提が成り立たないのだとしたら、インフォームド・コンセントはフィクションでしかありません。でも、私は、フィクションだからやめようと言っているわけではありません。フィクションであっても(フィクションであるからこそ)重要であり、たどり着くことはないけれどそこに向かい続けなればならないことはあるのです。憲法第9条の「戦力放棄」「恒久平和」はフィクションかもしれませんが、そのフィクションを理想として引き受けなければ、私たちは「恒久平和」に向かって進むことができないでしょう(内田樹さんの受け売り、のつもりです)。本質的にはできないことだと覚悟を決めて、それでも、病気についての情報を患者が納得できるまで伝えようとし続けること。患者と医療者が対等ということは現実にはありえないけれども、それでも患者と同じ地平にとどまろうとし続けて話し合うこと。患者の希望のすべてをかなえることはできないけれど、少しでも患者の願いに応えることを断念しないこと。医療の論理が圧倒的されそうになりながら、診療の方針・診療内容について患者さんと合意しようとがんばること。そうしたことは、インフォームド・コンセントがたどり着くことのできない理想=フィクションであることを自覚しない限り、できないことなのだと思います。



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