No.9
模擬患者と身体診察D
「身体診察を、医師になってから、はじめて患者で行って良いのか」という言葉も耳に響きが良い言葉ですが、どうも何かずれているような気がします。
それで良いのではないでしょうか。この言い方は、人間の身体と精神を分離し、そのいずれをも対象化した視点からの言葉のように感じます。人の身体をさわり処置をするということは、その患者さんとの信頼関係に裏打ちされてはじめて(その患者さんから)許されることだと思うのです。技術は技術として学び、信頼は信頼として学ぶというのではないのです。初めてでも、どんなに未熟でも、患者さんの力になりたいと必死になっている医師の診察や処置を、多くの場合患者さんは許容してくれます。受け持ちだからこそ、身体を触れられることを許します。医師のほうも、自分が受け持つからこそ真剣になり、真剣になるからこそ技術が身につきます。これからずっとあなたの力になりますという関係の上にしか技術は生きないのです。
教えるべきは技術ではなく、関係性を作る態度ではないでしょうか。高知医大の倉本さんが年賀状で、「医学部の学生に本当に必要なのは国語とコミュニケーション能力(とちょっとの英語)だけではないかと思うようになりました」と書いておられるのも、そのあたりのことではないかと思います。(身体論については、市川浩や竹内敏晴など多くの人が書いています。)
多くの実習が後々ほとんど役に立たないということは、私たちが経験的に知っています。だからといって、実習が必要ないとは思いません。レストランのショーケースの模造食品を見て回る程度の意味しかなくても、そこには大きな意味があります。大事だからこそ(その店の売りだからこそ)、そしてそれをいつかはぜひ十分味わってほしいと思うからこそ、サンプルとして見てもらっているのですから。しかし、そのために市民を「利用」しなければならないという根拠は乏しいのではないでしょうか。模型と実物は違うと言われますが、一人実際の人間で実習したら大丈夫だなんて、誰も思わないでしょう。実習台は学生でも教師でも十分ですね。この時点では、大事なことなのだということだけしっかりわかってもらえば良いのです。
繰り返しになりますが、自分がしたくないことを他人に求める(させる)教育で伝わるのは、その姿勢です。厭なことを人に押し付ける姿勢、実習台として人間を見てしまう目、患者を見下ろす目、市民を見下ろす目だけは間違いなく伝わります。この目が、他の人と良い関係を作るということを最も妨げるものになるはずです。
さて最後は例のウェーバーの言葉で締めくくりましょうか。
文化的発展の「最後の人びと」にとって、次のことばが真理となることであろう。「精神のない専門家、愛情のない享楽人、これら無益なるものは、人類のかつて到達しなかった段階に登りえたことを自負するであろう」
この言葉が現代においても色褪せていないところが問題なのでしょうが、「最後の人びと」の一人にはならないでおきたいと思っています。