東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.90

踏みとどまる

日下隼人     ・「慰めの言葉とは何か。一種の傲慢さではありますまいか。悲痛のどん底に沈んでいる人間に向かって・・・その人間の心を暖めるであろうといいますが、この予想の中に傲慢があるのです。粗い神経が見られるのです」(亀井勝一郎『愛の無常について』)
・「何人も自分自身が正しいと思い始めたときが、堕落の始まりだと思います。・・・・」(石原吉郎詩集)
・「地獄への道には善意が敷き詰められている」(サミュエル・ジョンソン:異説があります)
・「自分は優しいんだと思っているかぎり、人間は決して優しくあり得ない」(高史明『いのちの優しさ』)
   今年の研修医採用試験のグループディスカッションの課題です。このあとに「来年医師になるあなたの立場を踏まえて、この言葉について話し合ってみてください」という言葉が続きます。出題意図が透けて見えて話しやすいかなと思ったり、病院の研修案内には「謙虚さを身につけてほしい」と繰り返し書いていますので、そのあたりに話が収斂するかなと思っていましたら、どのグループもずいぶん違う方向に話が流れていきました。学生時代に、このような言葉を学ぶ機会が多くはないのかもしれません。
   学生たちの話を聞いているうちに、以前、白血病の子どもの母親が「白血病という診断がついたとたん(面談が終わった直後から)、部屋に入ってくる看護婦さんの誰もがそれまでとは違って『やさしく』接してくれて、それがいちばんつらかった」と話してくれたことを思いだしました。
   医師になるということは、正しい=適切な医療を提供し、善意で患者さんに優しく接し、患者さんを慰める仕事に就くということです。心からそれができなくては困ります。でも、そのことこそが、同時に避けがたく人を傷つけるものなのです。そんな深淵の上にかかった細い橋に乗ることが医師になるということです。その「危うさ」を見つめ続け、グラグラしながら、あえてその場に踏みとどまり続けることが医療者に求められる倫理的姿勢だと思います。そのことを伝えたいという思いからこれらの問題を出しているのですが(だから、グループディスカッションで正解が言えなくても良いのです)、少しは伝わっているでしょうか。
   あるサイトで「医師の倫理の前に人としての倫理があるというような言い方はおかしい。医師のプロフェッショナリズムも、人間の基本的な倫理を専門知識と良心によって深めたものである」と書かれていました。生きていること自体が、医師になるということと同じことなのかもしれません。(2011.9)



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