DNR(Do Not Resuscitation)という言葉が病院の中を徘徊しています。
若いナースが職員食堂で「DNRって書いてあるのに、あの先生、なんでいろんなことをしてるんだろう」と同僚と話していました。医療者にとってDNRとは、「亡くなるときには何もしませんよ」「無駄なことをしたって仕方ない」「こちらの手間が少なくて済む(悩まなくて済む)」という感覚で受け取られているのではないでしょうか。そこで「DNRを取ってあるんですか」という言葉が交わされることになります。
患者さんや家族と話し合いはされているはずです。でも、患者さんや家族には「最期」の具体的なイメージは想像できません(し、知る必要もまったくありません)。医師もオブラートに包んだ説明をします。患者さんや家族にとってDNRとは「効果のない治療をなんでもかんでもは、されなくてすむのですね」ということであり、テレビでみるような「穏やかな死」であり(スパゲティ症候群というような意味不明な言葉が人を惑わせます)、「死に目をみんなで看取れる(それまでは医療的ケアをしてもらえる)」ということです。医療者と患者さんの想いは大きくずれてしまっています。普通の人には、DNRがなんのことかわかりませんし、決められません。DNRはこういうことですと当人に具体的には説明しにくいし、無駄な蘇生・無駄な延命という言葉もありますが、無駄か無駄でないかはわかりえないことです。患者さんが自分のこととして考えることは不愉快だろうし、家族だって冷静に考えられることではありません。
「『何もしない』って、本当に何もしないんですね。たしかに私たちが選んだことだけれど、心臓マッサージもしてもらえなかったんですね」とあるご家族が言われました。「DNRを選んだのだから心肺蘇生などの処置は何もしない」と医療者は思いますが、家族は「器械をつないで延々と治療することはないけれど、最後まで一生懸命医師が何かをしてくれるだろう。『何もしない』と言っても家族が集まるまでは一生懸命蘇生処置をしてくれるだろう」と考えています。家族は、手を握り見守る中で、親しい人の死を宣告されたいと思います。
同じ患者さんであっても、その思いは時間とともに変わるし、元気なときに思うDNRと具合が悪いときに思うDNRは違うでしょう。DNRと書かれたとたん「錦の御旗」みたいにその言葉が一人歩きしてしまって良いはずがありません。「DNRを取る」という表現には、「夜中に自分たちが判断を困らないようにしてほしい」「忙しい現場の人の手間が少しでも軽くなるような方針を与えてほしい」という感じが流れています。本来は狭く限定するべきことなのに、医療者は「何もしないで良い」と広く解釈してしまう傾向があります。「挿管するかしないか考えてきてください」と病院から言われたという話も聞きました。DNRは患者さんや家族を苦しめる言葉にもなるのです。
「DNR取ります」「この人DNRです」の先に何があるのでしょう。患者さんの最期のことを考えて「治療をしなくてよい」と決断するときに、家族は本当につらい思いをしていることを、私たちはDNRという言葉を使うときに忘れがちです。DNRということが、本当に患者さんや家族の中から出てきたのではなく、医療者が先に提示してしまって、患者が選ばされているのではないでしょうか。DNRを望まない人は「悪い」と言われるような雰囲気さえあるようです。
DNRという選択をされた方々をこの先どのように支えていくのか、望んでおられることを汲み取ってどうケアするのか。とてもつらい思いをしながら「これ以上はしなくてよいです」と言っておられるのだからこそ、その最後のときをどう支えるか。DNRだからこそ、その人の最期を満たされたものとするために私たちが行なうべきことが逆にいっぱいある(いっぱい見つけなくてはいけない)はずなのです。「何もしなくて良いのだ」と思ってしまうのなら、DNRという言葉をやめたほうが良いのです。(2011.11)