またまた内田樹さんの本からの引用、私って信者なのかもしれません。
僕たちが決して聞き落さないのは、「これは私宛のパーソナルなメッセージだ」と確信するものだからです。人間はいつでも「自分についての言及」に対してのセンサーだけは最大化させています。
受信者に対する敬意を含んでいるメッセージがいちばん遠くまで届く。「深い敬意を含むメッセージ」に対しては驚くほど敏感に反応します。そのコンテンツがたとえ理解不能であろうとも、僕たちは「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。人間は、自分に対する敬意を見落とすことはありません。
人はどれほどわかりにくいメッセージであっても、そこに自分に対する敬意が含まれているならば、最大限の注意をそこに向け、聴き取り、理解しようと努める。だから、もしあなたが呑み込むことのむずかしいメッセージを誰かに届けようと願うなら、深い敬意をこめてそれを発信しなさい。それがコミュニケーションに関わるユダヤ=キリスト教の太古的な叡智の一つではないかと僕は思います。(「呪いの時代」新潮社 2011)
もうずいぶん昔のことなのですが、テレビで邱永漢(最近の人は知らないかもしれませんね)が、「自分は糖尿病だが、食事療法などはしていない。医者は、どの医者も同じことしか言わない。自分の生活 のことなんか何も知らないで、教科書通りのアドバイスしかしないから」というような意味のことを言っていました(正確ではありません)。「あなた」に向けたものではなく患者一般(なんていう人はいない)に向けられた医師のアドバイスは、届かないのです(最近の糖尿病の「患者指導」はもっときめ細かくなっていますが)。個別性は、相手の人の暮らしに敬意を抱かなければ、視野に入らないからです。
コミュニケーションについての教育は、相手の人への「敬意」ということだけでも良いのではないかと、私は思うようになりました。そのことを説いている人が少ないのが残念です。言葉と態度に敬意をこめることが、コミュニケーションの基本だと言いたい。「医療の言葉を分かりやすく説明する」ことは大切ですが、その努力たけではいつまでたっても患者さんにわかってもらえないでしょう。「親しさ」と「敬意」のはざまで、たえず自らの位置を確認して、軌道修正をし続けながら目の前の人と接していくことができれば(最近はやりのreflectionでしょうか)、後はたいてい何とかうまくいくのではないでしょうか。
研修医や医学生たちに、いつも「謙虚」であり続けるよう話しているのも、その思いからです。謙虚さを他人に説くような人に限って、本人は謙虚ではないものですが。(2011.12)