東京SP研究会
コラム:日下隼人

日下隼人プロフィール

No.99

性善説と性悪説

日下隼人    こんなテーマ自体、時代遅れかもしれませんが・・・。
   医療に手落ちがあった時(あるいは、手落ちがあったとして)、患者や家族が金銭的補償を医療側に求めてくることは少なくありません。はじめから、金銭を目的とする人がいますし、中には言いがかりをつけることが仕事の人もいます。けれども、はじめはそのつもりがない人でも、「金を次々と要求」するようになることもあるのではないでしょうか。
   金銭的補償を求められる経験が重なってくると、病院の人間には患者とはそういうものだという感覚が身についてきます。そうなると、患者は警戒対象にしか見えなくなります。「はじめに相手の言うことを呑んでしまうと要求がエスカレートするから、毅然と撥ね付ける」などと言われることもあります。こちらに落ち度があれば、「金で解決すればよい(するしかない)だろう(でも、なるべく安く抑えられないか)」という考えがちです。つまりは「性悪説」で患者を見るようになります。性悪説が妥当なことはありますし、また性善説で接していて裏切られることもあります。そうなると、この確信は強化されます。
   その感覚は態度や言葉の端々に滲み出てきます。本人は隠しているつもりでも、患者や家族はアンテナの感度を研ぎ澄ませていますから、すぐ感じ取ってしまいます。「性悪説で自分たちのことを見ているな」「金で解決しようとしているな」「出す金を少なくしようとしているな」と感じてしまったら、自分の悔しさや無念さを思い知らせるためには、お金の面で戦うしかなくなります。悔しさや無念さは、不都合な結末からだけ生じているのではなくて、初診から今日までの様々な場面での、細々したことの積み重ね(多くはコミュニケーション不全です)の結果です。哀悼の意も表さない人には、金を要求するか「土下座」を求めるくらいしか方法を思いつきません。「金で解決しよう」という態度を感じたら、法外なほどの多額の金額をぶつけるしかなくなります。そうすることで、自分たちの思いをなんとか分からせたいと思います。結果として、どんどん金額をつり上げることもあるでしょう。
   その思いは、医療者には通じません。医療者は、そうした要求を聞いて「やっぱり金が目当てだ」という思いを強め、「性悪説」の確信が深まります。「クレーマーはそんなものですよ」と「修羅場を踏んできている」(つもりの)人の態度が、ますますひどい修羅場を作り出してしまうこともあるのではないでしょうか。
   たぶんどの人間の性も「善」「悪」の両面を持っていて、性悪説で接してくる人に対しては、人はその性悪の面でたち向かいます。でも、ここからは信頼の医療は生まれません。なにはともあれ性善説で相手を見るというのではいけないでしょうか。いろいろなことを言い募っているにしても、それは悲嘆や辛さ、悔しさゆえのものとして、ともかく耳を傾けることからスタートできないでしょうか。性善説で接すれば、相手も「性善」の面を向けてくれる、とは限りません。「つけ上がって、どんどん要求してくる」という事態は起こりえますが、そこで毅然と撥ね付ける=軌道修正することは可能なはずです。「初めに甘い顔をすると撥ね付けられない」のではなくて、そのような事態は、はじめからの関わり方と人としての姿勢に問題がある時に起こるのです。なによりも、「性善説」で関わらなければ、声を上げている人の心が見えてはきませんし、悪意の人を見分けることもできません。
   「上から目線」も「性悪」の一つですから、患者さんはどうしても医師に対して対抗上「性悪」の面を向けることになります。医師はもともと性悪説で人間を見る習性があります。だからこそ、まずは「性善説」で相手に接するくらいでやっとバランスが取れると思うのですが。 (2012.2)

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