東京SP研究会
コラム:佐伯晴子

No.2 医療と医学教育

佐伯晴子 医師の価値観は医学教育で決まる。その医学教育の内容に踏み込まないと、実際の医療は「患者中心」のものになるはずもないのである。「患者中心の医療」の標語はどの医療機関でも掲げているが、そこに従事する医療者、とりわけわが国の医療において裁量権をもつ医師がどのような教育を受け、その成果としての価値観がどうであるかには、今まであまり光が当てられてこなかったように思う。しかし、医療面接教育などで模擬患者をしていると、実はこの点について敏感に感じ取ることができるのである。
 医療面接教育に一般市民が模擬患者として参加し始めてから10年余りとなった。参加の形態も大学の臨時雇いや下請け業者扱い、医学知識を得ることを報酬と考えさせボランティアさせるもの(ボランティアさせるという日本語はそもそもおかしい)、医療機関の利用者の立場として依頼するものなど様々である。わが国全体でどのような模擬患者活動があり、自分の住む地域では何があるのかを知らないうちに、遭遇したものがそれぞれの模擬患者活動であるのが現状とも言える。医療の地域間でのバラつきとみごとに相似している。
 その大学で医療面接、つまり患者さんとのコミュニケーションを教える立場の人がどのような医療の価値観をもっているかで、市民との「模擬患者」を媒体としたつきあい方が決まる。そのつきあい方は、その人の患者さんとの関係のとり方とも共通している。自分の相手となる患者の主観を重視し声に耳を傾ける姿勢があるかどうか、あるいは、患者が理解できることを第一に考え、誠実に説明する努力を怠らないかどうか、相手がどう感じたかをつねに気にかけるかどうか、そのあたりが問われてくる。

医学教育をする人が価値観と態度に影響を与える

 そして、面白いことに(当り前であるかも知れないが)学生はその教えた人のコピーとしてそのままの価値観、態度で研修医となり、患者の前に出てくるのである。学生時代の「問診」場面中心の医療面接ではさほど違いは出てくることはないが、研修医の「説明」場面の医療面接を行ってみると、その患者への態度や医療の価値観が如実に表れてくる。
知識不足や技量不足は今後いくらでも努力しだいで補えるから、さほど心配にはならない。
問題なのは、患者が理解し納得することを最重要に考えないことである。挨拶やアイコンタクトが教科書どおりであっても、患者の安心を考えた上での挨拶や、目を合わせることでなければ何の意味もない。
実際に、誠実に対応しようとする研修医は自分の知識が足りないことを嘆き、落ち込み、申し訳ないと下向くことが多い。そんな研修医に出会うと思わず励ましエールを送りたくなる。そうやって悩んでくれただけで嬉しいのだと伝える。おそらくその研修医を育てた人は悩む姿、誠実に努力する姿をさらけ出していたのではないだろうか。その姿は決して優雅でもスマートでもなく、だからこそ意図的に見せていたわけではないはずだ。だが学生はそんな生きた先輩の姿から、医療の仕事の温度を感じ取り、魅力に思っていたのではないだろうか。
かたや、「習っていない」「わからない」と説明の課題設定に不満を強く述べ、医療面接実習を放棄し、無関心を装う研修医もいる。あるいは「質問はないかと訊いたら患者が何も言わなかったから」と説明が十分理解できなかったとの模擬患者の感想に対して堂々と責任転嫁する研修医もいる。コミュニケーションは相互作用であり、質問せよと詰問されても威圧感で何も言えなくなるということが理解できない。Aのボタンを押せば必ずBの結果が出てくると単純な図式を患者という人にもあてはめているのだろう。どうしてこのような考えに至ったのだろうか。しかも、模擬患者との医療面接教育は経験済みとのことである。教育の段階で訂正が加わらなかったということは、やはり、教育の立場にある人がもつ価値観や態度から受けた影響であると考えるのが自然であろう。

篠原出版新社 医学教育白書2006年版 収載

参考文献: 厚生労働省社会保障審議会医療部会「医療提供体制に関する意見」
(平成17年12月8日)
藤垣裕子「専門知と公共性」 東京大学出版会
小林傳司「公共のための科学技術」 玉川大学出版会

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