東京SP研究会
コラム:佐伯晴子

佐伯晴子プロフィール

No.2

「学生を泣かせるSP」

佐伯晴子   日下隼人氏のコミュニケーションのススメ 80「それを言っちゃおしまいよ」を読みました。ちなみに文中冒頭の模擬患者さんは、東京SP研究会のメンバーではありませんが、 他山の石として、教訓にしたいと思います。当会でもコミュニケーション演習で学生さんが泣いてしまわれることがあります。緊張の糸がほぐれたとき、SPの「やさしい気持ちがうれしかった」という言葉にふれたときに感極まって涙する学生さんがいます。うれし涙は伝染してもらい泣きするSPもいます。一方で、予想外に実力を発揮できず悔し泣きをされる学生さんもたまにみかけます。しかし、80に取り上げられた場面は少し違うようですね。ただ、実際の場面を見ているわけではないので推測の域を出ないことをご了承ください。

    確かにそのSP個人の物言いが質の悪いものであったのでしょう。ですから、全面的に文中のSPの肩を持つつもりはありません。SPは学生さんの何年間かの学生生活のごく一部、わずか数分の接触で感じたことを伝えるだけですから、「あなたみたいな人」という全人格を否定する表現はSPの禁句で、明らかに不適切です。言われて驚きショックを受けるのも無理はないと思います。ルール違反だとSPは責められても仕方ないでしょう。もっとも、患者さんが「こんな先生だったら安心だな」「この人にだったら話せるな」と感じるのは、医療面接の決め台詞でもなく90度法でもなく、「その人」全体から受ける印象ですので、実際に患者になったときどう思うかは各人の自由です。しかし、学生の成長を促し動機を支える教育現場における模擬患者の言動は別だとわきまえるべきです。自信を砕き、やる気を削ぎ、心を折る言葉(の暴力)は、SPとしてだけでなく人として避けねばなりません。次の学年が戦々恐々とする程のトラウマをつくったのですから、故意かどうかに関わりなく、そのSPは重大なミスを犯しています。「あなたみたいな人」ではなく、「あなたが〜〜したことが、私には気になりました」と表現していたら、結果は違っていたかも知れません。ただ、どのような状況でそうなったのか。その場をじっくり観察していなければ判断できることではないと思います。できれば、直接そのSP本人に今の状況をお伝えし、「発言」の経緯と意図をうかがいたいと思います。その方の考え方、感じ方、お話の仕方などをある程度ふまえた上で、学生を相手にするSPには不適格だと判断できれば、その旨をお話して今後のSP活動は断念いただくほうがよいと思います。
    私が気になったのは、毎年行われる試験で、必ず、「被害」にあう学生さんが出続けているという事態です。なぜ、何も対策がとられていないのか。経験した学生さんは、それほどの「被害」であるなら、なぜ大学に(次の学年のためにも)改善を求めないのでしょう。
担当教員が事態を把握していないのではありませんか? 目や耳に入っていても、ことの重大さに気付かないのか、気付いていても放置しているのか、そのSPが自ら改善するよう祈っているのか。その大学の教員と学生との関係、教員とSPとの関係で、きちんとした話し合いができていないのではないか、だから毎年繰り返されるのではないか、と想像しています。とくに教員とSPとの関係で十分な話し合いはできているのか疑わしいのです。
    そもそも、SPとしてのルールをその大学の教員とそのSPとの間で共有できていたのでしょうか。養成の段階から実習の現場でも、守ろうとしているルールの根拠と必要性をSPが十分に認識できるまで教員はサポートしていたのかと気になります。SPのミスを教員に責任転嫁するのではありませんが、そのSPの認識が改まらない理由を知りたいのです。もしSPが適切な言葉が浮かばずに生の感情をぶつけてしまい、言葉が過ぎて学生さんが不当に「イジメ」られていると教員が判断するなら教員として適切に動けばいいだけの話ではないでしょうか。SPには言葉の真意を問い表現の工夫を求め、学生にはなぜそのようにSPが感じたのか、まったく心当たりがないのかを問い、改善の余地があれば助言する。最初はSPのきつい言葉で驚かせてしまったが、中にはそう感じる人もいるということを理解しておこう、とまとめてほしいのです。そのSPは自分の言葉の至らなさを学生に詫びるかも知れません、学生はSPを人として許すという経験をして、寛容な自分を知るかもしれません。そのような人と人の出会いの場にまで教員がサポートしていければ、SPが同じ過ちを繰り返しモンスターと化して次の学年が戦々恐々とすることもないのではありませんか?

    一般人なら誰でも、元患者ならいつでもSPになれるわけではありません。詳しいことは日下隼人氏との共著『話せる医療者』に書きましたが、発行10年を経ても大事なことは変わりません。学生さんのトラウマになっては実際の患者さんと話すのが嫌になってしまい、コミュニケーション促進を目指しているのに元も子もない、と当会のSPの皆さんは理解しています。とくにフィードバック(感想を伝える)にはたいへん気を遣います。慣れないうちは、つい言い過ぎたり、丁度よい表現が見つからずに終わったり、後悔と反省を繰り返していますし、慣れた頃に気を緩めると、つい口が滑ることがあり、活動後の報告書での自己評価と月2回の定例会での反省の共有は欠かせません。実習などで偶々その場に日下氏や佐伯がいればフォローすることもありますが、OSCEや複数会場での実習ではSPひとりで学生さんに向き合い、演技とフィードバックの責任をひとりで背負います。フォローのない状況での発言の重さと影響力を承知しているので、限られた時間のなかですが、自分の気持の優先順位をつけて、お礼の言葉から始めてSPのルールに則り伝わりやすい言葉を慎重に選ぶようにします。考えた末に十のうち八くらいの言葉を飲み込んでいることが多いのですが、研修後のアンケートには「もっと厳しいことを言ってもらいたかった」と主にSPと面接をしない傍観者から(無責任に)書かれます。また大学などでも教員から「SPさんから言ってもらうほうが効き目があるので是非厳しくお願いします」と依頼されます。教員が言うとアカハラ、パワハラになるのでSPに代弁させようという意図が透けて見えることもあります。でも、どんな状況で、どの学生にとって、どの教員にとって、どのSPにとって、どこまでが甘くてどこからが厳しいのか、価値観の異なる者どうしで共通の線引きをすることは困難です。SPが「厳しく」言った結果、学生が動揺した場合に、責任をもってその場を収拾する教員は、残念ながら少数に留まっています。「SPさん厳しくお願いします」というのは総論賛成各論反対ということだと理解して、SPはつねに慎重に発言する必要があると思います。
    当会がお手伝いした実習で、こんなことがありました。すでに国家資格(免許)をとった薬学院生の実習でしたが、「コミュニケーション実習だから」という理由で該当する薬剤の下調べをせずに実習に臨んだようです。患者の疑問にまともに答えようとしない無責任な姿勢と医療者としては不適切な(長いカールした髪を束ねずに濃い化粧で)身なりと幼稚な言葉遣いに対して、SPは「もっとしっかりしてもらいたい」と伝えたのです。卒業前の学生なら「もう少しきちんとしてもらえるとうれしい」と表現するところでしたが、すでに現場に出ていると聞いたので率直な思いを(それでも気を遣いながら)伝えたのです。実習が終わった頃「研修生が泣いているので謝ってほしい」と教員がSPを呼びに来られました。まるで「ヨソの人に怒られた」と泣いて帰ってきた子に、「何をして怒られたの?」と尋ねもせずに「うちの子を泣かせるなんて許せない」と怒り、「うちの大事な子に謝れ」とクレームをつける(愚かな)親に似た行動をとる教員に、私とそのSPは呆れて言葉が出ませんでした。国家資格をもった大人に子どものように泣かれ、教員には「謝ってくれ」と要求され、SPなんて理不尽な仕事はもうやりたくないと思ったものです。
    困るのは「SPさんがうちの学生を泣かせた」と言葉をひとり歩きさせて、SP個人の質の問題にしてしまい、SPという外部の協力者が学生教育に参加することで何が起こりうるのか、教員として何をどうすべきなのかという点を棚上げにしてしまうことです。フィードバックの厳しさ加減をSPに一任することも無謀であり、教員の無責任ではないかと思います。今回以外にも、「迷惑なSP」の話は私の耳にも入ります。「ひどいSPがいてね」で始まる文脈はたいてい「だから、医学の素人は決められた受け答えだけをしていればいい、教員の命令に文句を言わずに従うのがボランティアの務めだ」という訓諭に飛躍します。その人が言いたいのは、「そのSPのどんな点がまずかったのか、なぜそれが起こったのか、どうすればいいか」という事実の分析や対策や提案ではありません。「コミュニケーションを通じて患者と医療者の理解と信頼関係を深めたい」目的で、医療を受ける立場(あるいは納税者)での市民運動の一方法としてSP活動を位置付けている当会の経験から言えることは、一般人を「しゃべる人形」「安く使えるヒト教材」と捉える一部の教員には、SPとの対話や協議でSP参加型教育の充実と改善を考える姿勢は見えにくいということです。

    最後に、学生さんの涙を見て素直で感受性が豊かだと思う一方で、他人の命をあずかる職業につこうとする若者がなぜ人前で子どものように泣くのだろうと訝しく思うことも少なくありません。この程度で動揺するのでは、実際に患者さんを目の前にして落ち着いて行動してもらえるのだろうか、と心配になります。患者さんや家族のことより自分の気持ちひとつで動くのではないか、大きな変化には対応できないのではないか、などと想像してしまうのです。それに、誰でも仕事や家庭のさまざまな状況で泣きたいことは少なからずあるものですが、人前でするかどうか。涙の種類によっては周りの人がどう感じるかを想像して、その場は耐えるのも必要ではないかと思います。もちろん、医療はタフな仕事であり、心が折れてはつとまらない、だから周りが支えなければいけない、とは百も承知しています。だからこそ、「医療をよくしたい」市民SPと「医療をよくしたい」教員が、同じ思いをもちながらも実際にはお互いを信頼できていない現状は残念なのです。自ら厳しい仕事を引き受けた、それだけでも尊い若者が、いきいきと活躍して多くの患者さんや家族との出会いを分かち合ってくれることを心から願っています。学生さんが感性豊かに、意志を強くもち、心身ともに健やかに働き続ける医療者となるために、何をどのように整えればよいのか、一緒に対話を重ねて考える必要があるのではないでしょうか。

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