東京SP研究会
コラム:佐伯晴子

佐伯晴子プロフィール

No.4

患者が医療に求めるあたたかい心とは別次元の「SPトレーニング」

佐伯晴子   日下氏のコラム Hidden curriculum に関して、「養成」され「派遣」される立場の一人として感じるままを書いてみたい。それは、辻本好子さんのお別れ会に出席し、 生前最後となったご講演のビデオを視聴して、自分の気持ちを確認したせいでもある。
   辻本さんが病院職員に向け、立ったままハンドマイクを握り1時間近くも話されたご自分の体験は、いわば日本の患者や家族のほとんどが味わっていることだった。辛いときに、ただ寄り添っていてほしい、気持ちをそのまま聴いてほしい、ということと、 些細な言葉にも患者は傷つくことを忘れないでほしい、裏返すと、ほんの少し言動に気をつけてもらえると医療者は身体だけでなく心の支えになる、きわめて有難い存在だと 講演会場だけでなく、お別れ会に参加した医療者全員に励ましのメッセージを送られた。

   私たち東京SP研究会に限らず、SPを志し活動している市民の多くは、このような、むしろ当たり前のことを伝え続けることに意味があると感じているのだと思う。ご講演では、ある研修医が軽すぎる言葉遣いを辻本さんに指摘された翌朝一番に、「自分は10年以上人から叱られたことがなかったので驚いたが、有難かった」と挨拶に来たという話もあった。やっぱり、どこもそうなのだと私は思った。誰もきちんと育てていない。 お別れ会に参加していた他のSP団体の方と言葉を交わした。「10年以上も自分だけに向けたメッセージをもらっていない人が、患者さんの心身のつらさや痛みに向き合う仕事をしようとしている。教えられたことがないから知らない、指摘されたことがないからできない。言われてみて初めて気づくことも多いのだろう。だから、SPのもっとも大切な仕事は、実際の患者さんの代わりに、うれしかった、ありがとう、残念だ、とその時の気持ちを医療の仕事をする人にじかに伝えて、尊い仕事を続けてほしいと励ますこと。その結果、医療を受ける人も医療をする人も素直な気持ちで向き合えて、医療がもっと温かいものになるように願うこと。」とSP活動の基本と、そこに向ける気持ちを確かめあった。辻本さんのおかげで、そんな対話が可能になった。

     実習や演習の具体的な方法はいろいろあっていいと思う。だが、目指すものは素朴な、 だが基本的な人と人とのつながりを喜ぶものであってほしい。辻本さんが胃がん末期と診断された入院先でのこと。1年目の看護師が技術の未熟さを詫び、何もできないのでと枕元にじっと寄り添ってくれた。不意に堰を切ったように、痛さ、つらさ、悔しさ、不満、怒り、悲しさなど封印していた気持ちと涙を、まるで幼子のようにぶちまけていた、看護師は一緒にただ泣いてくれた、それが何より有り難かったというお話だった。技術や知識の前に、人にしかできないことがある、それを大事にしてほしいという辻本さんのメッセージは、SPを志し、活動を続ける市民の願いとまったく同じである。
   東京SP研究会のSPのメンバーは、自分自身や家族の患者体験があって、SPという活動があることを知り、その活動目標が自分の思いとさほど違いがないと感じて活動を続けている。アメリカやカナダや韓国やシンガポールが、と引き合いに出す国の数を増やして「グローバルな」医学教育の潮流だから、と医学教育の「専門家」に論じられても、日本の患者や家族が医療に求めているものを見つめてもらわないことには、日本の医療の姿は変わらない。技術が欧米並みにあっても、自分の小さな言葉がもつ力が暴力にもなれば支えにもなることに気づかない医療者なら、お世話になりたいとは思わない。
   医学教育学会の発表に限らず、あちこちでSPを素材にした研究がみられる。いつの間にか便利に使われていることもあれば、一般人、高齢者のQOLを高める、医学知識を身につけるとSPをすることの「効用」を(恩着せがましく)押しつけられていると感じることもある。心理や性格まで分析するのは、医学教育に協力する市民のボランティア精神の一方的な利用だと感じる。そのような一般市民の研究利用が増えるに従って、 SPという存在が、医療を受ける立場のひと、医療を支える一般社会のひと、医学教育の実態を見つめる外部のひと、として、尊重し向き合い対話する相手ではなくなり(もともとそう思っていた人は少数だが)、治験の被験者か下請け工事の作業員か、さわって構わない生きた人体、実験室のモルモットのような、「使う」もの、明らかに下に位置するもの、医療者に従うべきものと見なされていると感じる。
この傾向に拍車をかけたのは共用試験OSCEと思われる。どの大学も医療面接の患者役が必要になった。指示通りの決められた対応をする人を揃えなければならない。「なぜここでこう答えるのか?」「この設定の意図は何か?」などと本質的な議論を起こす人は「即戦力」ではなくノイズに見なされ排除される。本当は、こんなそもそも論を提供してくれる人こそ、医療者教育や医療にとって建設的で貴重な存在なのだが、その真価に気づく医学教育者は少ない。今どきの医学教育者にとって望ましいSP像は、見ざる言わざる聞かざるで、いつでもどこでも、安価に(無償ならベスト)、指示通りに動いてくれる人である。豊富な人生経験をもち、教育にも携わった人もいれば、経営に手腕をふるう人もいる。そんな人(人材とは言わずに、教材、人的資源と言われている)を十把一絡げにして、使いやすい教材にしよう、養成する方法を標準化しよう、方法を揃えれば製品も揃うはずだ、というので企画されているのが「SPトレーニング」のテキスト作りである。私がSPの代表として入れられている医学教育学会の委員会の仕事なのだが、私ごときの「そもそも論」はノイズにすぎず、毎回の議事録に、少しばかりの抵抗の跡が残ればいいほうだ。市民をつかまえて、トレーニング、訓練する、という力技と黴臭い権威主義(SPは教員と対等に話し合う資格はない、教授会で採用を決めるから、という委員もいる)がまかり通る奇妙な世界だ。SPと合意の上で作った、と私は利用されるだろう。内容についての批判や加筆がページ数制限のもと却下されるのであれば、委員を辞任するほうがよいのかもしれない。形は実らないまでも異論をさしはさむ機会を得るために委員を続けるか、影響力はどれほどか知らないが、出版されるものについての責任を負うのを避けるために委員を辞任するか、答えを出せずにいる。
   国民皆保険も崩れそうな昨今。医療を受ける人、一般社会の人と一緒に、国の社会保障のひとつとしての医療を支えていかねばならないと思う。時代錯誤のパワハラ台詞も聞き流し、利用するときだけ摺り寄ってきて今は挨拶すらしない医学教育者の後姿を優しく見送り、そんな大人たちのことは横に置いておいて、目の前の若い医療者、医療の仕事を志す学生にだけは、患者や家族が求めるものをじかに伝えていきたいと思う。
   それでいいですか?辻本さん。 それだけでいいですか? そんな活動でいいでしょうか? 患者や家族や一般社会の皆さんに、今の医学教育、医療者教育についてお話し、それらとのつき合い方を一緒に考えていただく機会をつくりたいと思う。                                 

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